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2013/03/19

「デーモン閣下の邦楽維新Collaboration デーモン閣下が三島由紀夫の楯を突く!」

20130316

●日時 2013年3月16日(土)18時~
●場所 横浜みなとみらいホール大ホール
●出演 デーモン閣下(朗読・歌唱)・松田美由紀(朗読)・ホリ・ヒロシ(人形舞)・三橋貴風ほか(尺八)・外山香ほか(二十絃箏)・黒船バンド(松崎雄一(編曲・キーボード)・雷電湯澤(ドラムス)・石川俊介(ベース))

三島由紀夫の生き様を大変興味深く思っているデーモン閣下が初めてステージで三島由紀夫作品を朗読します。邦楽使いの達魔(たつじん)デーモン閣下と尺八奏者三橋貴風が鮮やかに三島の美を奏で、尺八と箏による大合奏が情緒を描き、ゲストの女優松田美由紀と人形舞ホリ・ヒロシが華を添えます。アートとエンターテインメントの絶妙なバランスのうえに、ロックスピリットが跳ぶ、異次元のCollaborationをお楽しみください。
※上演作品は当日発表となります。

いったいどんな内容なのか?・・・チラシを見てもまったく謎の、デーモン閣下×三島由紀夫イベントに行ってみました。

チケットを取ったのがギリギリだったので席はかなり後方でしたが、舞台後方に大型スクリーンも設置されてて、よ~く見えました。

開演前に、デーモン閣下の声で、出演者や尺八・箏についても詳しく楽しく紹介され、かなり長めのMCで盛り上げてくれます。デーモン閣下と三橋貴風による邦楽維新が始まって今年が14年目。今回は、大ホール進出、複数による朗読、人形の加入、三島由紀夫と新しい試みがなされ、今日は古典より現代邦楽の名曲が流れるとのこと。

今回の朗読作品については、「昭和39年頃が舞台の作品」だと前説で「プチヒント」。
・・・ということは、「午後の曳航」だ! ご当地・横浜が舞台だしね。
(「午後の曳航」は昭和38年発表の作品なのに、なぜ39年と言ったのかは、後で明らかに)。

公式ページに、現在は当日の演目や曲目がアップされてますが、当日までは、「三島由紀夫の作品群の中から、今回どの名作を取り上げるのか、当日のお楽しみです」と謎めかしてあって、三島作品のオムニバスかな?とか、尺八なら「金閣寺」かな?などと想像してた。
「午後の曳航」だったとは。
邦楽のイメージで目くらましされてたけど、よいチョイス。元町、中華街、マリンタワー、横浜港、……会場を一歩出れば、作品で登場する場所がすぐですものね。。
(ちなみに、房子が経営している「舶来用品店レックス」のモデルは、元町の「ポピー」。
以前の記事にチラっと写真を載っけてます。別の「午後の曳航」ネタも。)

さて、いよいよ、開演。
三橋貴風の尺八が一曲演奏されたあと、閣下がおもむろに「三島由紀夫作 「午後の曳航」 第一部 夏」とアナウンス。
舞台上手に尺八が4人、下手に箏が5人、中央奥に黒船バンド(キーボード、ドラム、ベース)。そして、中央手前に、閣下と松田美由紀が椅子に座ってスタンバイ。

ここからは、本当に朗読が始まりました。

おやすみ
を言うと、母は登の部屋のドアに外側から鍵をかけた。火事でも起こったらどうするつもりだろう。もちろんそのときは一等先にこのドアをあけると母は誓っているけれど。……

・・・という感じ。
(ジェンダーで色分けするのもいかがかとは思うけど、でも、男声と女声がこんな色のイメージだった)。

デーモンが船員の竜二、少年・登と首領、さらに地の文章も。松田美由紀が登の母・房子。
登・首領・竜二が会話する箇所などでは松田美由紀が地の文章を担当するところもあるけど、大部分の箇所を朗読するのはデーモン。
最初の松田美由紀の「おやすみ」の一声だけの余韻がただようなか、デーモンの男声がつづいていく感じが絶妙。
声色を使い分けて、デーモンの朗読が実にうまい! 冷めた、あるいは無邪気を装う少年たちの声、なかんずく登と首領を使い分けるのに驚き。

作品の内容に合わせて、音楽も変幻自在。
冒頭は、横浜の雰囲気で、ジャズ。尺八や箏でグレン・ミラーでっせ。
少年の心を描くときには、邦楽の不思議な響きが。
BGMとしてばかりではなく、ミュージカルのごとく、時に歌も入る。

竜二が航海に出る前夜、房子との涙の別れの場面では、「わたし祈ってます」を熱唱。
これがまた、うまい。……で、歌い終わったあと、デーモンがボソッと「うますぎる」と自賛。
(こんなふうに、ところどころ、ボソッとつぶやくところが笑える)。

人形舞のホリ・ヒロシは、真っ白い衣裳をつけた少年の人形をもって、3カ所ぐらいで登場。
猫の解体で人形を使うのは、昨年見た蜷川版の「海辺のカフカ」と趣向が似ていたかも。
ビジュアル面で、舞台に彩りを添えてました。(音楽は黒猫のタンゴ)。

休憩のあと、「第二部 冬」。
大尾で、登が渡す(睡眠薬入りの)紅茶を竜二が飲んだところで、スクリーンの画面がぼけて、くっくりして、ぼけて、・・・そして消える。
竜二の意識を表しているのか。
音楽は、「さよなら」(♪もう終りだね、君が小さく見える、・・・さよなら、さよなら、・・・)。

・・・なんか、もうね、とってもよくできてました。
まったく先入観なしに見たけど、デーモンの朗読力、演技力、歌唱力がすさまじくて感嘆したし、1回きりの舞台を楽しみながらも傾注して作っていることがとても伝わってきた。
三島由紀夫の朗読がうまくて、引きつけられて、楽しい!
なにより、邦楽の概念が覆されました。こんなに豊かに種々の曲が奏でられ、心情表現ができるのだと。(恥ずかしながら、歌舞伎や文楽など以外だと、お正月のラジオ番組ぐらいでしか聴く機会がない)。

それに三島作品の大衆的な部分もよく見えてきた(「わたし祈ってます」の選曲がとにかく絶妙、それに、竜二と房子が泣く場面が多いことも改めて気づかされた)。
作品内に米軍の記述が多いことも。(三島作品のなかのアメリカ表象、やはり気になる)。
(そういえば、私、いままで忘れてたけど、学部の卒論では「午後の曳航」を扱ったのでした。「美しい星」・「午後の曳航」・「豊饒の海」のラインナップ。他の2作品では論文を書いたけど、「午後の曳航」はまだだ~。何か書けるかな?)

4101050155 午後の曳航 (新潮文庫)
三島 由紀夫
新潮社  1968-07-17


 

さて、ここまでで、休憩20分を挟んで3時間弱。朗読が終わった舞台では、出演者紹介のあと、松田美由紀とホリ・ヒロシが退場。
デーモンがふつうに一曲歌ってから、デーモン閣下と三橋貴風によるトーク。(〔※ 〕は私の感想です。。)

・デーモン:最後は、え、これで終わり?と思っただろう。睡眠薬を飲んで眠らされたところで、作品は終わる。三島はこれ以上は書いてないのだ。このあとどうなったか、あとは想像するしかない。
〔※実際には、三島は、結末の「誰も知るように、栄光の味は苦い」の続きを書いており、それを読ませてもらったことを、堂本正樹が回想している(『回想 回転扉の三島由紀夫』p.70)。
「 この後が七、八枚あったのである。猫の解剖に照応して、手術用のゴム手袋を嵌めた少年たちは、竜二の灰色の徳利のセーターを剥がし、英雄の全裸を解剖する。
 この部分を思い切って削除したため、作品は余韻を生み、構成はより引き締まった。三島文学の中でも、傑作と読んで差し支えない出来となった。しかし、『仮面の告白』の大皿に乗せられた美少年の裸体にナイフを入れる夢想を引き継いだ、この逞しい海の男の解剖も、独立した散文詩として保存して置きたかった気もする。」
……その解剖シーンの内容については、堂本本をお読みくださいませ。〕


・デーモン:戦後の横浜は米軍に接収されていた。基地問題では、いまの沖縄のようだった。接収が解消されたのが、竜二が20歳ぐらいの昭和25年10月で、現在、竜二は34歳なので、作品の現在は昭和39年だと判定できる。
 〔※このあたり、要調査。とりあえず、横浜市のページ〕。

・「午後の曳航」を提案したのは、三橋だった。
三橋:昨年までの小ホールから、今回は大ホールに進出することもあって、地元の横浜を舞台にした作品にしたかった。

・デーモン:今回はとにかく朗読原稿を作るのが大変だった。
まず文庫本を読んでも読んでも終わらない。そして作品をすべてWordファイルにするのが大変だった。〔※そのファイル、私、欲しい!〕
それを削ってダイジェスト版を作るのに、また苦労。これまでの作品は9000字。今回はがんばって削っても36000字にしかならない。で、2部構成にすることにしたが、それでも多すぎる。そこで、それまでタッチしていなかった三橋が適当に削ったが、「え、そこ削るの?」というところは、後でこっそりデーモンが復活させた。

・デーモン:なぜダイジェスト版を作るのが大変だったか。
三島由紀夫の文章は、同じ内容を比喩を変えながら何回も繰り返すのが特徴。それを削ってしまうと、三島らしくなくなる。
ストーリーを追うだけでは単なる猟奇的な物語になってしまう。三島らしさを残しながら、ストーリーが展開するように削るのに、苦労した。

・・・と、三島らしさとは何かをめぐる、面白いトークでした。
朗読用のダイジェスト版をデーモン本人が作っていたことにも感心。あの卓越した朗読は、そうやって読み込み、作り込んでいたからこそなのだと納得しました。

Photo

配布物のなかに「デーモン閣下の邦楽維新Collaborationの系譜」という一覧表も。
2000年の「山月記」(中島敦)を皮切りに、谷崎、芥川、古典作品などを各地のホールで開催してきたみたいだ。
なかでも、「春琴抄」は10回以上上演されている。
息長く活動してるのね。
→東京新聞 2013.3.10「デーモン閣下が「三島」朗読 尺八の三橋貴風らと競演」

今回の「午後の曳航」もよかったし、「金閣寺」も絶対うまくいく気がする。
デーモン閣下には、ぜひ他の三島作品もレパートリーに加えてほしいし、ツアーもしてほしいなあ。。
プロフィールに「広島県がん検診啓発キャラクター」と載せているのにも好感度アップ。

それにしても、私がデーモンのイベントに行くなんて、思いがけなかったわ。人生、何が起こるかわからない。。
昨年の宝塚(春の雪)といい、三島を軸に、面白いものが新規開拓できて、楽しきかな。

※3月20日(水・祝)早朝、デーモン閣下@広島の番組が放映されるようです。
ホリデーインタビュー 広島からもらった我が輩の“役割”  ~アーティスト デーモン閣下~

2012/09/23

第七劇場広島公演「班女/邯鄲」

Hanjokantan

・2012年9月22日(土)19:30-、23日(日)13:00-/18:30-
・広島市東区民文化センター スタジオ
・一般 2000円 / 学生 1000円
・原作  三島由紀夫「近代能楽集」
・構成・演出 美術  鳴海康平
・出演  佐直由佳子、木母千尋、小菅紘史、菊原真結、米谷よう子、伊吹卓光、仲谷智邦、石井萠水
・アフタートーク 鳴海康平×岩崎紀恵
東区民文化センターweb
第七劇場web

せっかく広島で三島作品が見られるので、初日と2日目マチネの2回を見に行きました。
第七劇場の舞台を拝見するのは初めて。
2006年から取り組まれて定評のある「班女」と、新作「邯鄲」の組み合わせです。

『近代能楽集』は三島由紀夫の代表的な戯曲の一つですが、「サド侯爵夫人」や「鹿鳴館」などのある程度上演形態が決まってしまう作品と異なり、能が原曲だということも大きいのでしょう、どのような演出も許容するような変幻自在さ・底無しの可能性を秘めた作品群です。
上演があるたび、戯曲のどんな側面を掘り出してくれるのか楽しみに劇場に向いますが、このたびの第七劇場公演は、これまでの三島舞台にないトーンでの上演でした。

「邯鄲」の上映時間が55分、転換のための5分の休憩をはさんで、「班女」が30分弱。
一般的な『近代能楽集』各作品の上映時間は40~50分といったところですから(「邯鄲」は他作品に比べてやや長め)、かなりスピード感のある上演だと言えましょう。
狭いスタジオ公演、抑えた照明、モノトーンで無機的な装置、電子音も使った音楽、シンプルな衣裳、パフォーマンス・アートな雰囲気の演技、抑揚を抑えた異化的で早口なセリフ。
いわば《モダニズム近代能楽集》・《アバンギャルド近代能楽集》ですね。

そうした試みがより面白く感じられたのは、何度も上演されているという「班女」よりも、むしろ新作「邯鄲」のように思えました。

〈以下、ネタバレあります。〉

「邯鄲」
──自分の人生は終わったと悟りきった青年・次郎が、かつて乳母だった菊が住まう田舎を十年ぶりに訪ねて、菊の持つ邯鄲の枕で眠る。次郎は精霊たちの見せる栄耀栄華の夢をすべて拒否して、「生きたい」と決意し、夢から覚める。すると菊の夫が出ていってから咲くことのなかった庭の花々が一度に咲きほこる。──

舞台上手に机と丸イス、下手に椅子が一つ。机上には積木。
何度も暗転を繰り返し、次郎と菊の二人が対話する冒頭の現実の場面から精霊たち(仮面はつけない)が消えては現れる。
邯鄲の枕による夢の場面では、妻を肉体としての女性と声だけの3人とに分化させ、抱く→倒す→引きずる→抱き起こす動作が繰り返され、日常生活が夢幻的に表現される。
次郎役の小菅紘史と菊役の木母千尋が存在感があり、セリフも実にうまい。金や電話などとして多義的に利用される積木の扱いが楽しい。

次郎の夢のはずなのに、なぜか菊が眠りにつき、次郎の夢の中でも積木を扱っているところなど、よくわからない部分もあったし、初日のためかセリフにつまる役者が散見されたものの、全体として面白い舞台でした。

終演後に演出の鳴海さんとお話させていただき、いろいろとわからなかった部分の意図を伺うことができました。
菊の眠り。あれは、死者に呼びかけていたのだとのこと。
つまり次郎は亡くなっており(→フクシマや震災の死者たちの総体を表し)、菊は死者を悼む親しい者・母的な者の総体であるとのこと。
う~む、なるほど。。
そういえば、冒頭も、まず菊が一人でセリフを語り、暗転の後に次郎が現れて菊が同じセリフを今度は次郎と対話していましたが、死者を識閾下で呼び出したということでしょうか。電子音も病棟の心電図の音のようでもありました。
同じ『近代能楽集』の「葵上」のような霊的な世界や、川端康成の「抒情歌」などに近い世界ですね。
また「班女」「邯鄲」の2作の共通テーマが「待つ」ことだと演出ノートに記しておられ、「班女」はともかく、「邯鄲」で「待つ」とは?と不思議だったのですが、死者を悼み召還することであるとすればよく理解できます。

鳴海さんは、3・11以後、どのように演劇を作っていくか、自分のなかで変わらざるをえなかったと話しておられました。
観客がこうした意図をどれだけ汲むことができたかはわかりませんが、私自身は、こうした『近代能楽集』の大胆な読み替えに意表をつかれ、三島戯曲の新しい解釈として新鮮に感じました。

一方の「班女」
──扇をとりかわした恋人が現れるのを待ち続ける狂女・花子。花子を「狂気の宝石」だと見なして愛し、共に暮らす中年の画家の実子。二人の前に吉雄が現れるが、花子は彼を本物の吉雄ではないと拒否して、吉雄は去る。花子はこれからも吉雄を待ち続けると述べ、「待つ」花子と「待たない」実子の二人の「すばらしい人生」がはじまる。──

舞台の横一列に3カ所、床に小さなオブジェ(左と中が小石、右が葉付きの枝)、それぞれ上から照明が下ろされる。3人の人物の深層を表している?

とくに花子のセリフが抑揚なく早口。観客にひっかかりをおぼえさせないかのごとく、各場の間もなく、舞台はするすると進行する。
実子が新聞紙を切り裂き、それを花子が雪に見立てる場面はなく、実子がばらまくのは絵の具。実子は赤い絵の具を白い床に絞り、掌で塗りたくり、それを自分の腕や服、頭にこすりつける。
なんともシュール。実子のエキセントリックな要素、あるいは心の傷を表現しているのか?

また、不思議だったのは、舞台の最後に吉雄が退場しないこと。
冒頭の実子の一人語りの場面で、すでに吉雄が舞台後方を通過する。これは、実子と花子の二人の世界に彼が影をさしていることの表現として、とてもうまい演出だと思う。
だが、結末は、ずっと影を落としていた吉雄が敗北し退場して、実子と花子の二人だけの幸福な世界に結実させなくてはいけないのではないか?

  花子「私は待つ」
  実子「私は何も待たない」  
  花子「私は待つ。……こうして今日も日が暮れるのね」
  実子「(目をかがやかせて)すばらしい人生!」

ところが戯曲とは違って、幕切れの実子は少しも楽しそうではない。
吉雄が舞台上にとどまることとあいまって、最終的にもまだ二人の世界にはなりきっていないという解釈なのだろうか? だとするとなぜ?

・・・正直なところ、「班女」の舞台は、頭に疑問符を浮かべつつ見ていました。

実子の絵の具について。
アフタートークの鳴海さんの説明によれば、吉雄の経済性や現実性に対して、実子は芸術家としての三島と重ねられているとのこと。
(実子=三島だとすれば、赤は三島の死のイメージなのだろうか?)

また、上演後にお話したところでは、結末に吉雄が退場しなかったのは、待つ対象を消すことなく、花子の「待つ」姿勢を純粋なものにしたかったからだとのこと。
実子の最後の語りも、けっして吉雄がいなくなってハッピー!というイメージにはしたくなかったと話しておられました。
・・・でもやはり、違和感は残ります。ただ私自身に、かくあるべしという「班女」像が固着しているのかもしれません。戯曲を再読してみようと思います。

アフタートークでも色々な話題が出ましたが、鳴海さんが語る「班女」演出の変遷が面白かったです。
「葵上」はある程度行き着くところまでいった感があるが、「班女」は上演を繰り返すたびに発展し見えてくるものがあるとのこと。
以前の「班女」演出は、師事していた鈴木忠志さんの影響もあって、和服や白塗りなど様式的な〈和〉の世界で作っていた。しかし、海外上演が重なるにつれてオリエンタルな見せ方が安易に感じられて排するようになり、モダンな舞台に転じたところで赤い絵の具を使った演出を着想したとのことでした。

今回の舞台、私自身は「班女」の解釈には違和を感じるところもありましたが、観劇後に種々の思いがわきおこり、人と話したくなる、そんな実験的な舞台でした。
鳴海さんは、まだ32歳とのこと。これからますます期待できる演劇人ですね。

※12月に「三島ル。」公演。
愛知・三重で、第七劇場shelfの2劇団による『近代能楽集』の公演があるようです。

長久手市文化の家 12月1日・2日・・「班女」(第七劇場)・「弱法師」(shelf)
三重県文化会館 12月8日・9日・・「班女」(shelf)・「邯鄲」(第七劇場)

2012/06/17

映画「11.25 自決の日-三島由紀夫と若者たち」

1125jiketunohi

若松孝二監督の映画「11・25自決の日 三島由紀夫と若者たち」。
広島上映は7月7日からなので、出張先で見てきた。

この映画には、「書く人」としての三島由紀夫は登場しない。
三島由紀夫といえば、小説家、劇作家にして、演出家。写真集の被写体になり、映画や演劇に出演し、主題歌まで歌った。社交的で座談の名手で、英語でスピーチ。歌舞伎や能を愛好し、一方で流行を知悉し、アングラな芸術家とも交流が深く、独自の美学やエロスも追求した。
三島由紀夫の魅力は、ニヒリストであり、かつ真摯な行動者であり、突き動かされるようなパッションと天才的なストーリーテラーと、人生を舞台だと見なして己を操るなど、豊かな多面性にあり、その三島があのような最期を迎えたからこそ、人々はたいへんな衝撃を受けたのだ。

ところが、この映画の三島由紀夫には多面的世界は全くない。
1966年から1970年の最後の蹶起に向かって、ただひたすら突き進む三島と、彼をとりまく若者たちが描かれるのみ。
実際には、三島は死の直前まで『豊饒の海』の原稿に取り組み、演劇とも深く関わり、人々と会って盛んに活動していたが、そうした三島の姿はほとんど描かれることはない。もちろん、三島の有名な哄笑も、ユーモラスで洒脱な会話もない。

象徴的なのが、三島の書斎のセット。大机が置かれ、その上に三島愛用のピース丸缶はあれども、あれは仕事をする人の机ではない。背面に作り付けの書棚もない。本棚は横の壁に申しわけ程度に1棚置かれているだけ。篠山紀信の『三島由紀夫の家』ぐらい参照してほしかった・・。
東大全共闘との討論についても同様。映画からは三島の誠実さは伝わるが、三島のケタ違いのクレバーさや学生たち相手に見せる余裕は全く感じられない。
(パンフレットによれば、三島役の井浦新は、あえて他の資料に当たることなく、台本だけを読み込んだとのこと。それでは、作家としての三島由紀夫が役者の身体からにじみ出るはずがないだろう)。
11月25日の朝、書斎の机に『豊饒の海』最終回の原稿用紙が残されているが、置かれているのは、「『豊饒の海』完」という最後の1枚。実際には『豊饒の海』原稿は厳重に二重封筒に入れられて厳封されていたのだが、それでは絵にならないにせよ、いくらなんでも最後の1枚が一番上に置かれているわけはないだろう。
エンド・ロールで、三島が生涯をかけて書いた作品群のタイトルが流れたが、本編で「憂国」や「英霊の声」以外の作品が出てこないのだから、とってつけたよう。『豊饒の海』4巻も、各作品名ではなく、「豊饒の海」として一括して出されるだけだし。

三島が文学者として相応の仕事をしていることは当然の常識であり、その前提の上に映画が作られているというつもりかもしれないが、そうであっても、豊かな芸術的世界を持っていた三島がそれを切り捨てて最期の行動に走ったことを、映画としては当然映し出すべきであろう。
要するに、これは、多面的な三島由紀夫のなかの一面だけを切り取ったものであり、つまりは森田必勝ら楯の会の学生たちが見た三島由紀夫像なのだ。
映画のなかで、森田は三島の小説を読んでもわからない、と述べていた。三島の芸術作品や美的生活を理解できない人間にはこのように見えたのであろう、行動の人・憂国の士としての三島の一面を拡大して作った映画なのだ。

エロスについても同様。
サウナのなかで腰にタオルを巻いただけの裸で蹶起の計画を話し合う三島や若者たち。
ここにホモエロティックな要素を見て取れと暗示しているのか、まったくそのような要素は含んでないのか、なんとも判断のしようのない映画であった。

若松孝二の「実録・連合赤軍-あさま山荘への道程」については相当に評価し、「11.25 自決の日」はこれと対になる映画だとのことで期待していたのだが、まことに残念。

同じく作家・三島由紀夫を素材とした映画に、ポール・シュレイダーの「MISHIMA」があり、三島の生涯と、蹶起の1日の行動と、三島が残した作品と、三つの世界がコラージュして作られていた。
二つの映画ともに出てくる挿話のうち、たとえば三島と楯の会会員の若者たちが血書の署名をする場面。
「11.25自決の日」では、ひたすら生真面目。
「MISHIMA」では、互いの血を混ぜるだけに、「誰かこのなかに変な病気をもってる奴はいないだろうな」といった冗談を三島(緒方拳)が言って、若者たちを笑わせる。
どちらが実際の三島に近かったのか、明らかだろう。
私には、三島の多面的な豊饒さ、驚くべき才能、感受性、ひ弱さやコンプレックス、エロスをも含めて表出されていた「MISHIMA」の方が断然好みである。

・・というわけで、全体的な評価は上記のとおりだが、もう少し「11.25 自決の日」について。
俳優は熱演していた。井浦新は、最初、三島には見えないと思っていたが、楯の会結成のあたりから、行動の人・憂国の人としての三島になったように思う。
満島真之介も、「三島先生のために自分はいつでも命を捨てます」とてらいなく言い、三島を死においやる「純真」な森田必勝になっていた。

国際反戦デーなどの資料映像を効果的に挿入しており、蹶起に至る過程がわかりやすかったし、金嬉老事件やよど号ハイジャックについての三島の認識の判断も面白かった。また、三島邸を訪ねた少年が「先生はいつ死ぬんですか」と尋ねたという、三島の最晩年のエッセイ「独楽」の挿話を使い、その少年を映画冒頭の浅沼暗殺事件の山口二矢と同じ役者を使ったのも巧みだった。

寺島しのぶが三島夫人・瑤子を演じるが、自衛隊体験入隊以降ふっつりと出なくなり、三島自決後の最終場面で再登場するあたりも、楯の会が男同士の絆の集団であることを如実に示し、それを相対化する役目を果していた。

評価すべき点もあるものの、あまりに一面的な三島像にへきえき、というのが正直な感想。
もっとも、行動者としての三島を崇拝している人たちには、文学研究者の描く三島像もまた同様に一面的で違和感を感じさせるものなのかもしれないなあ。

2012/01/26

「金閣寺」凱旋公演

01

「金閣寺」日本凱旋公演
・2012年1月19日(木)~22日(日)
・梅田芸術劇場メインホール
公式ページ

・東京公演は、1月27日~2月12日
(於・赤坂ACTシアター)

宮本亜門演出、森田剛主演の「金閣寺」、ニューヨークでの上演をすませての日本凱旋公演。
明日から東京公演のようですね。
もう一週間前になりますが、私は大阪で見てきました。

初日でしたが、破綻なく、完成していました。
昨年2月の初演のレビューはこちらです。
昨年に比べて、今年は輪郭がクッキリした印象を受けました。
溝口-鶴川-柏木の、少年~青年期の男3人の物語という輪郭が、昨年よりさらに前面に出されていたように思います。
溝口-鶴川の明るい親交、溝口-柏木の陰影のある関係、柏木の告白を聞く溝口を見て去っていく鶴川。
肉体的な接触も随所にあり、ホモ・エロティシズムの要素が強まりました。
それは、腐女子向けサービス・・なんていうわけではなく、小説から亜門さんが読み取ったものなのでしょう。
小説「金閣寺」は、男性のコードでも、女性のコードでも読むことができますが、伊藤ちひろ台本は、父や老師も含めて、男同士の絆、モデル・反モデルの線で芝居を組み立てています。

と同時に、前半の溝口-鶴川の交友の場面のナレーターは柏木、後半の溝口-柏木の場面のナレーターは鶴川。
3人がリレーしながら「生きよう」という結末にいたるまで、3者が究極には同一のもの、観客も含めてみんなが溝口でありうる、といった示唆も生きていました。

もっとも、芝居から受ける印象は観劇条件にも大きく左右されます。
昨年はかなり後方の座席で、よくいえば舞台全体が見渡される、逆にいえば役者の細かい表情などは見えなかったため、大駱駝艦の方々のパフォーマンスや鳳凰のホーメイに目が引きつけられました。
今回は前列中央という恵まれた席で、役者を十分に追うことができたからかもしれませんが、若い男優3人の関係が強烈に印象づけられました。

森田剛クンは、溝口を完全に自分のものにしていました。
(体格的に似てるからか、野田秀樹さんの若い頃のような発声でした)。
大東クンはピュアな鶴川を、高岡くんはニヒルな柏木が映画版の仲代さんに重なって見えました。
再演で、とにかくアンサンブルがとてもよかったと思います。

演出では、昨年版でも印象深かった、溝口が出奔して舞鶴に行く列車の中で、過去が甦えってくるシーンがとにかくスピーディ!
亡くなったはずの父がかつて上京したときと同じく列車にいて、そこから、父-有為子-脱走兵-海機の学生-敗戦時の切腹兵(これは原作にはありません)-鶴川-米兵の女-南禅寺の女・・・と死者や死に関わる者たちが連続して表れ、ホーメイの強烈な声のあと、反転して、柏木-母-副司-老師・・・といった現世で強烈に生きる者たちの系列がつづいていくあたり、見事でした。

また、いよいよ金閣に火をつける場面も、一瞬のうちに四方の壁が取れて、強烈。
つまり溝口の内界と外界の壁が壊れて広々とした世界に出ていったというイメージです。
金閣放火のあと溝口がどのような認識に至ったかは、小説では書かれておらす、解釈も分かれるところですが、宮本演出では明確に一つの解釈を提示していました。

ところで、本公演終了後の2月15日にDVDが発売されるのですね。

B006QGXMGG 金閣寺-The Temple of the Golden Pavilion- [DVD]
avex trax  2012-02-15

by G-Tools

これはどっちの公演なのでしょう?
発売時期からして、昨年の舞台なのでしょうね。
映画版の2つの「金閣寺」……雷蔵の「炎上」とATG「金閣寺」とあわせて、長く楽しめそう。
私はもちろん買います!

2012/01/22

「オペラ班女」

Hanjo1

HIROSHIMA HAPPY NEW EAR OPERA Ⅰ
(広島の新しい耳)
「オペラ班女」
・台本・作曲・音楽監督/細川俊夫
・原作/三島由紀夫「班女」
・英訳/ドナルド・キーン
・演出/平田オリザ
・指揮/川瀬賢太郎
・演奏/広島交響楽団
・出演/半田美和子(花子)・藤井美雪(実子)・小島克正(吉雄)
・2012年1月20日(金)19時/1月22日(日)15時
・アステールプラザ中ホール能舞台
・上演時間 1時間40分
公式ページ

見てきました。「オペラ班女」。

2004年にフランスで初演、BSで少し紹介されて、ぜひ見たいと思っていました。それが広島で上演されるなんて!!
広島男子駅伝のゴールの時間帯でごったがえす平和公園前を通って、いざアステールへ!

全6場。
もともとエクサン・プロバンスの依頼で制作されたということもあって、歌は英語。
今回はセリフの部分は日本語でした。

能舞台の左手・脇正面の部分がオーケストラ・ピット。
舞台は正面鏡板の前に屏風。花子が部屋で休む場で、この屏風に隠れます。
屏風の前にロッキング・チェアが一つ。床には、裂かれた新聞紙が敷きつめられてますが、きわめてシンプルな作り。
キャストは洋服を着て、能舞台なのであしもとは足袋。

現代音楽独特の不思議な音色にあわせて、芝居が進んでいきます。
音楽は決して全面に出ず、背景という感じ。
実子の不安から、喜びへの変化。
花子の「狂気の宝石」の美。
吉雄の最初の勝ち誇った様子から、逃げ出していく様への変化。

オペラはあまり見ることはありませんが、とても演劇的な作りだと思いました。
とくに、吉雄が帰ったあとの花子の微笑みは、もしかして狂気のふりをしているだけ?と感じさせられたほど。
現実の吉雄を拒否すれば、ずっと待ち続けていられるのですから。
また「待つ」ことをつづけさせてくれる実子のもとにいられるのですから。

プレトークで細川さんは、平田オリザさんを演出に迎えて、演劇としてのオペラの可能性を追求したかったと話しておられました。
また自分の狙いは、種々のぶつかりあいであると。
・人間同士の、愛・嫉妬などのぶつかりあい。
・現実の響きと夢幻世界のぶつかりあい。
・セリフの日本語と歌の英語という、言語のぶつかりあい
・能舞台という日本と、西洋の楽器によってかなでられる音楽のぶつかりあい

アフタートークで、オペラ初演出の平田さんは、演劇のワークショップを行なって、キャストばかりか指揮の川瀬さんもずっと参加してセリフも練習されたといった挿話を披露。
そして、現代音楽については、単純な感情移入を妨げ、気持ちよくなる寸前に不協和音が入って、いわゆる「異化」効果があると話していました。
また、ディベートの部分が長いのが三島作品の特色であるとも。

私自身は、「近代能楽集」の自由度の高さが印象に残りました。
「サド侯爵夫人」や「鹿鳴館」はある程度、上演の形が決まってしまいます。それに対して、「近代能楽集」は、美輪さんのようなゴージャスの舞台も、蜷川流の解釈も、三条会のような実験的な演出も、そして今回のオペラ版でも、どのような味付けを行なっても見ることができる、変幻自在な作品だと思います。
英語の歌も、背景の現代音楽も、全く邪魔せず、作品自体を深めていく。

また、セリフが日本語、歌は英語、という2言語の切り換えも、思ったより違和感なく聞けました。
アフタートークで細川さんは、最初から歌とセリフを分けて作ったわけではなく、キーンさんの英語の台本をみながら作曲していき、うまく音楽にしずらい箇所をセリフに回し、あるいは音楽的な流れと会話とのメリハリを考えながら作っていったと話しておられました。
もともと三島の芝居そのものが詩劇なのですから、セリフと歌の区別はないとも言えます。

今回は広島のみの公演だけど、決して地方向けとは思っていない、国際的なものを目指しているのだ、とのお話でしたが、三島演劇の可能性を広げる貴重な試みだと思います。
再演を期待します。
その点でも、客席が埋まっていて嬉しく思いました。

2011/03/01

「金閣寺」三島由紀夫☓宮本亜門☓森田剛

Photo

KAAT神奈川芸術劇場のこけら落とし公演『金閣寺』を福岡で見てきました!

原作     三島由紀夫
演出     宮本亜門
原作翻案     セルジュ・ラモット
台本     伊藤ちひろ
出演     森田剛(溝口) 高岡蒼甫(柏木) 大東俊介(鶴川) 中越典子(有為子) 高橋長英(父+禅海) 岡本麗(母) 花王おさむ(副司) 大駱駝艦〈田村一行 湯山大一郎 若羽幸平 橋本まつり 小田直哉 加藤貴宏〉
岡田あがさ 三輪ひとみ 山川冬樹(鳳凰) / 瑳川哲朗(老師)

■2011年1月29日~2月14日 神奈川芸術劇場(KAAT)ホール
■2011年2月19日~20日 まつもと市民芸術館
■2011年2月25日~27日 キャナルシティ博多劇場
■2011年3月5日~6日 愛知県芸術劇場 大ホール
■2011年3月10日~13日 梅田芸術劇場 メインホール

最初のうちは、原作を丁寧に追っているけど突出した部分がなくて地味だなあ、なんて思いながら見てましたが、芝居の半ばぐらいから、これは地味に見えるけどスゴイかも・・と興奮し始め、見終わったときには大満足で劇場を後にしました!

まとまりはないですが、帰広以来ちまちま書いていたメモを、そろそろupしておきます。
キリがないしね。

《以下、大いにネタばれアリです。》



舞台はシンプルなつくりで、正面には黒板。
舞台上は全体に暗めで、華やかで明るい照明が使われることはほとんどない。
セットの展開は、大駱駝艦の方々による人力で。たとえばテーブルが組み合わさり、動かされることで道路になり、上を歩く役者の動きに合わせて道路がどんどん継ぎ足されていく、といった具合。
寺の日常生活を集団で早送りして見せるところなど、スピード感もあって面白かった。

開演前にすでに役者たちが普段着(というか現代の衣装)でたむろしている。
時間になると、『金閣寺』の冒頭部分を交代で朗読し始める。
次第に主人公である溝口(森田)に焦点化して芝居が始まるが、その後も、舞台の前半は柏木(高岡)が、後半は鶴川(大東)がナレーターを務める。
小説『金閣寺』は溝口の一人称で記述されていて、芝居でも柏木と鶴川のナレーションによって、溝口の見た外界や彼の内面が吐露される仕組み。
ナレーターとしての彼らは劇中の衣装ではなく普段着で、この作品世界で示される溝口の思いは現在のわれわれと地続きなのだと示しているかのよう。

明暗両面をもっていた鶴川と、内飜足によって自己誇示せざるをえない柏木の二人が溝口のナレーターとなることにより、異なった個性をもった溝口-柏木-鶴川の3人の若者が実は一体である印象を受ける。
溝口と鶴川が肩を組む場面や、柏木と溝口が話すところを凝視して立ち去る鶴川など、男同士の親密な関係も示唆される。

溝口が固執する金閣は、セットではなく、人間が演じる。
金閣を擬人化するというと前衛的な演出だと思われがちだけど、妙なケレンや違和感はなかった。
金閣(鳳凰)を演じる山川冬樹は、長髪でスリムな体躯で、男性でも女性でもなく性別不明な、時間を超えて中世から脈々と存在してきた建造物を体現していた。
そして折々にものすごい音声を立てて、溝口(と観客)を脅かす。ホーメイというのだそうだが、とても人が発する声とは思えなくて、このボイス・パフォーマンスのたびに大いに驚かされた。


さて、神奈川公演を見た方々のレビューで前もって教えられていたとおり、今回の舞台は原作である三島の『金閣寺』の主要なモチーフをほぼ網羅していた。
中盤まで地味な印象を受けたのは、ややもすると原作のダイジェスト版に見えかねないためだったのかもしれない。
でも細かく見ると異なったところもあって、おそらくそれが宮本亜門版「金閣寺」のキモなのだと思う。
全体に原作のモチーフの配置をまとめることで、メッセージを明瞭にしていた。

父(高橋)が溝口の目を覆って母(岡本)の不倫を見させなくするシーンの回想は、原作では父の一周忌で母が金閣寺に来るところにおかれていたが、舞台では柏木が老婆との初交渉を再現する場面まで遅延される。
もう一人の溝口ともいえる柏木と老婆のセックスに重ね合わされることで、母への屈折した愛、エディプス・コンプレックスが暗示されているかのようだ。

また、寺を出奔して舞鶴に行く車中でも、回想が挿入される。
一つは「死」の系列。溝口が短剣を傷つける海軍機関学校の生徒(彼は、敗戦の日に切腹する)-有為子-有為子の相手の軍人-父-鶴川。(順番はうろおぼえ(^^;;))
もう一つは「妊娠(と生れてこない子ども)」の系列。生け花の師匠-米兵と共に来た娼婦-そして有為子。
前者は基本的に男たちで、後者は女たち。
それらの回想の果てに、父の葬式の場面(本火を使用!)がカットバックされて、「金閣を焼かねばならぬ」という想念にたどりつく。
金閣を焼くことが、すべてのコンプレックスの根源である父と女によって産み出された生命を抹消することであるかのように。

また、小説では、溝口は金閣放火の前に遊廓に行く。それまで女性と性的な関係を持とうとするたびに現れていた金閣に邪魔されることなく、まり子という娼婦と性的な関係を結び、それを契機として金閣に火をつける。
この遊廓の場面が、舞台ではまるごとカットされていた。

溝口は、吃りであることで、有為子に象徴される現実の女性と交渉できないというコンプレックスをもっていて、その根っこには母への愛憎がある。
だが、演劇版では、そうした女性の系列よりは、柏木-鶴川、あるいは父-老師といった男同士の関係の方に重点を置いていたように思える。
それは必ずしも女性嫌悪ではないが、娼婦との肉体的接触などもたなくても、金閣に対峙することができると示しているかのようだ。

放火の当日に会った禅海和尚を、父を演じた高橋長英が二役で演じていたのもその現れで、金閣への溝口のこだわりは父によって育てられ、その父の半面である禅海に承認されることで溝口は自分の金閣放火が許されると判断する。
女性との関係がないわけではないが、どちらかといえば男同士の絆によって劇が展開していくのだ。
金閣を焼く場面で、書き割りの巨大な「目」が現れるのも、父によって目隠しされた呪縛が解かれるシンボルだろう。

ほかにも、小説にあった「南泉斬猫」の法話の代わりに、舞台では、臨済録示衆の章の「仏に逢うては仏を殺し、祖に逢うては祖を殺し・・」を早い時期から唱えさせていた。放火の前に急にこの言葉を想起する小説版はかなり唐突な印象を受けるので、むしろ舞台の方がよりわかりやすくなってよかったと思う。

最後に金閣に火をつけた溝口は、「生きよう」と思う。これは小説「金閣寺」と同じだ。
強固な観念となって自分を縛る金閣を焼き、憑き物がおちたようになって溝口は現実に戻ってくる。
「生きよう」と、ナレーターの鶴川が言い、柏木が言い、そして溝口が言った後、溝口は客席に降りて最前列の座席に坐る。
溝口は決して特異な人物(モンスター)ではない、歳月は隔てても現代のわれわれと同じなのだ、われわれの一員なのだ、という鮮やかなメッセージを放って、舞台は閉じられる。


全体に、とてもよくできた芝居だった。
脚本も演出も役者も、すべてプロの仕事という感じ。
企画も出演者も商業演劇の最たるもので、よく練られてキッチリと仕上がった舞台だったが、しかしながらルーティンの一つとして手際よく造りましたよ感がなくて、熱意と愛情がこめられていた。

『金閣寺』の二次創作としては、小説発表直後の1957年に新橋演舞場で演劇が上演され、その後もオペラ化されたが、これらはもちろん私は未見。
映画には、「炎上」(1958年・大映、市川崑監督、市川雷蔵・仲代達矢ほか)と「金閣寺」(1976年・ATG、高林陽一監督、篠田三郎・柴敏夫ほか)があって、これは映像で何度か見た。

二つの映画については、以前に書いたことがあるが、二つとも小説版とはかなり改変されている。
「炎上」の方は小説が書かなかった放火後の溝口や母が描かれ、「金閣寺」では女性たちが過度にクローズアップされ、いずれも、小説「金閣寺」との差異化を目的として作られていたように思う。

二つの映画に比べると、宮本版「金閣寺」は、とてもオーソドックスだ。
オーソドックスだが、単に、原作のモチーフをすべて入れました、というのとは違っている。若い男性3人の物語として「金閣寺」をしっかりと解釈した上で、その理解に沿って自然に作り上げられていた。

一方で、映画「炎上」へのリスペクトも感じられた。最初のうち、森田は雷蔵に、高岡は仲代達矢に見えた。先行する作品のイメージは尊重している。
副司役の花王おさむの、「老師~」という言い方は、映画「炎上」そのまんま。映画のように副司の息子が登場して、溝口と老師の跡目争いでもするのか・・と思ったぐらい。(あとでパンフレットを見たら、花王は映画のイメージを参考にしたと話していて、納得)。

役者陣は、主演の森田はじめ、みな熱演。
神奈川の初日から1カ月近くたって、芝居自体が熟してきたのだろうね。
とくに森田は、出ずっぱり。頭も坊主に丸めて溝口になりきり、屈託がよく表現されていた。
ジャニーズという先入観で曇らされてはいけない、うまい役者だと思う。
(私の後ろの席のお姉さんたちは、「なんか切なそうな顔やヘタレな顔ばっかり。笑った剛君が見たい。。」とのたまっておられましたが・・・。)

高岡、大東、有為子の中越もよし!
高岡くんは、自分で尺八を吹いていたのね。あれは難しいのだ・・。
(令嬢役の三輪ひとみさん、どこかで拝見したお顔だと思ったけど、「ハリケンジャー」の御前さまだった! なつかしい~。)
ともかく今回の芝居では、ベテランのうまさばかり目立って若手がダメ、ってことがなかったのが嬉しいデス。


さて、宮本亜門と三島由紀夫。

没後20年の1990年に『近代能楽集』全作品を2作品ずつ上演する企画があった。
宮本は「卒塔婆小町」の演出予定だったが、直前になって主演の一人・堤真一とともに公演から下りた。
たしか、主演の李麗仙と宮本が作品解釈で衝突したのだった。
(同時上演はさきごろ亡くなった茂山千之丞さん演出の「葵上」で、出演は、沢村藤十郎・佐野史郎)。

私は当時住んでた名古屋での公演に行ったけど、いま売り出し中の宮本亜門による三島劇が見たかったなあと、とてもとても残念だったことを覚えている。
その後、堤真一の方はtptの『近代能楽集』で三島劇を演じるところを見ることができたが、宮本の三島劇には縁がなかった。

今回、新設なった劇場の芸術監督に就任し、こけら落とし公演に三島由紀夫の代表的な小説の翻案をもってきたのは、宮本なりの20年ぶりのケジメだったのかもしれない。

2010/10/05

蜷川演出で三島の「サド」&「ヒットラー」!

三島×MISHIMAvs蜷川 「サド侯爵夫人」/「わが友ヒットラー」
シアターコクーン

作:三島由紀夫
演出:蜷川幸雄
出演:東山紀之 生田斗真 木場勝己 大石継太 岡田正 平幹二朗

★東京・シアターコクーン
2011年2月2日(水)~3月2日(水)

★大阪・シアターBRAVA!
2011年3月8日(火)~20日(日)
お問合せ:キョード-インフォメーション 06-7732-8888(10:00~19:00)

朝日コム(2010年10月5日)
東山、生田が三島作品を蜷川演出で挑戦

東山紀之(44)と生田斗真(25)が世界的演出家、蜷川幸雄氏の舞台に出演することが4日、発表された。
作家三島由紀夫の「サド侯爵夫人」と「わが友ヒットラー」の2作品。
来年2月に東京・渋谷のBunkamuraシアターコクーンで同時上演される。

2人は「サド侯爵-」で女性役に挑戦。東山はスキャンダルまみれのサド侯爵を愛でかばい続ける貞淑な夫人、生田は無邪気と無節操さを併せ持ち、サド侯爵と行動を共にする夫人の妹を演じる。

一転して「わが友-」で東山は誇り高い軍人、エルンスト・レームを、生田はアドルフ・ヒトラーを演じる。両作品の登場人物は数人。
「サド侯爵-」は女性役だけの作品で、「わが友-」は男性役だけ構成される。
各時代を代表する怪物的な人物を中心に描かれ、男女の不可思議を浮き彫りにする。  

東山は「三島由紀夫という、とてつもなくでかい山を登ることになりました。その頂に蜷川さんがどう導いてくれるのか、そこからどんな景色が見えるのか、2011年のあらたな挑戦にご期待ください」。
生田は「初めての蜷川作品参加で緊張しております。2作品ということで、いつもの2倍飛んでくる灰皿をよける練習から始めたいと思います」と意気込んでいる。
ほか平幹二朗が出演。

スポニチ[ 2010年10月05日 ]

生田斗真&東山紀之 蜷川舞台で女装披露

少年隊の東山紀之(44)と生田斗真(25)が蜷川幸雄氏演出の舞台に出演する。

三島由紀夫の代表的な戯曲「サド侯爵夫人」と「わが友ヒットラー」。来年2月2日から東京・渋谷のBunkamuraシアターコクーンで同時上演される。

「サド…」は女性6人しか登場しない物語で、東山と生田は女装を披露する。「わが友…」では東山がドイツ軍人、生田が独裁者アドルフ・ヒトラーを演じ る。東山は「三島由紀夫という、とてつもなくでかい山に登ることになりました。2011年の新たな挑戦にご期待ください」、生田は「初めての蜷川作品参加 で緊張しております」と話している。

これはまたすごいニュース!

蜷川×三島の「サド」&「ヒットラー」!
「サド侯爵夫人」は、戦後戯曲ナンバー1と呼ばれつつ、これまで実際に上演されると、むしろ「近代能楽集」のほうが実験的で面白い試みがなされていた。

しかし、今回は、蜷川さん!
これは、決定版になるかも。。

「サド」が男優だけで上演されることもこれまでにはあったので、「女装」じたいは騒ぐほどのことではない。
ただ、サド&ヒットラーを同時上演って??
それぞれ3時間ぐらいかかる芝居。しかもセリフ劇。どうなるのだろう。

そして、ジャニーズ系だとチケットが取れない・・(T_T)
でも、とっても見たい!
せめてせめて、WOWOWに期待。。

2010/08/26

お知らせ:学習院 活字文化公開講座(三島由紀夫)

学習院広報課からお知らせいただきました!

~三島由紀夫の自決から40年、芥川賞作家の平野啓一郎氏が「ニヒリズムと否定性」をテーマに基調講演。さらに学習院大学文学部の中条省平教授と「三島由紀夫と学習院」をテーマに対談も行います。~

学習院 活字文化公開講座

日時 2010年10月9日(土)13時30分~15時30分
会場 学習院 目白キャンパス
       西2号館201教室

基調講演
  平野啓一郎さん「ニヒリズムと否定性」

対談
  没後40年記念「三島由紀夫と学習院」
  平野啓一郎さん/中条省平さん

申込方法

  1. 学習院公開講座係
  2. 郵便番号・住所
  3. 氏名・年齢
  4. 職業
  5. 電話番号

を明記し、「活字文化推進会議事務局」まで
katsuji@yomiuri.com

〆切 9月24日(金)必着

21世紀活字文化プロジェクトのページ

没後40年企画ですね。
興味深いです。
私は、教室の院生発表会があって上京はかないませんが、行ける方はぜひ!

B000VNTPY8 みやび 三島由紀夫 [DVD]
ワック  2007-11-30

by G-Tools
4408534722 三島由紀夫が死んだ日 あの日何が終わり 何が始まったのか
中条 省平
実業之日本社  2005-04-16

by G-Tools

2010/07/26

『金閣寺』の舞台化

★ 森田剛で「金閣寺」!宮本亜門が主演指名…三島由紀夫代表作舞台
(スポーツ報知 2010.7.26)

 人気グループ「V6」の森田剛(31)が、作家・三島由紀夫の代表作を舞台化した「金閣寺」に主演することが25日、分かった。演出家の宮本亜門 氏(52)が芸術監督を務め、来年1月にオープンする神奈川芸術劇場のオープニング作品として上演されるもの。森田は役に合わせて丸刈りにし、世界中で知 られている日本文学の金字塔に挑む。

 神奈川の新しい芸術の発信地として、来年1月に横浜・山下町にオープンする神奈川芸術劇場。そのこけら落とし公演の主役という大役を森田が担う。

 「金閣寺」は、昭和の文豪・三島由紀夫の代表作。生来の吃音(きつおん)をコンプレックスに持つ若い僧侶・溝口が金閣に魅せられ、やがて金閣との 関係を絶たれたことに絶望し、最後は放火して消滅させることで、自らの自由を得るというストーリー。宮本氏が芸術監督に就任した際、「日本に焦点を当て、 神奈川から世界へ向けて、日本オリジナルの世界基準の作品を」と考えた結果、頭に浮かんだのが、この作品だった。

 溝口の孤独な感情を表現するには、高いレベルの演技が要求される。宮本氏も「日本文学史上、最もやりがいのある役の一つと言っても過言ではない」 としているが、その難役に森田を指名したのは「常に演技熱心であり、捨て身で役に没頭する」という、舞台への情熱を買ったからだった。

 出演の話を聞いたときには「大変光栄に思いました。と同時に、身の引き締まる思いもありました」と森田。ただ、不安よりも魅力の方がはるかに勝っ ているという。「豊潤な言葉で読み手を魅了する三島の世界で、溝口が何を考え、どう人生を見つめていたのかを深く掘り下げてゆくのは、とても興味がわきま す」。今は一日も早くセリフを頭に入れ、作品の世界を自らの中に描き出すことを楽しみにしている。

 宮本氏も「これから、けいこ場でタッグを組むのが実に楽しみだ。お互い容赦なく、真剣勝負で徹底的に突き進みましょう!」と意欲十分。劇場の“責任者”として、オープニングから全力で取り組んでいくつもりだ。

★V6森田「金閣寺」主演で丸刈り 神奈川芸術劇場こけら落とし公演
(中日スポーツ 2010年7月26日)

 V6森田剛(31)と演出家宮本亜門氏(52)が初タッグを組み、三島由紀夫の不朽の名作に挑むことが25日、分かった。作品は、来年1月29日 に初日を迎える神奈川芸術劇場(横浜市山下町)のこけら落とし公演になる「金閣寺」。言語の障害などでコンプレックスの塊の主人公の僧・溝口役に、森田は 5年ぶりの丸刈り頭で臨む。

 「海外からも注目されている公演で、これが世界で上演されるのも夢ではない」。同劇場の初代芸術監督を務める宮本氏が野望を語る作品。主演を託された森田も「まだけいこは先ですが、少しでも早くセリフを覚えてしまいたい、そんなふうに思っています」と心が躍る様子だ。

 三島文学の中でも名作として名高い「金閣寺」で描かれるのは、溝口が憧憬の念を抱いていた金閣寺に火を放つに至った軌跡。宮本氏は「三島由紀夫 は、映画『炎上』で溝口を演じた市川雷蔵を『君には全く感心した』と褒め、その孤独感の表現に『君の人生から汲み上げたあらゆるものを注ぎ込んだのであら う』と述べている。この溝口は、日本文学史上、最もやりがいのある役の一つと言っても過言ではない」と断言する。

 森田がこれに燃えないわけがない。「豊潤な言葉で読み手を魅了する三島の世界で、溝口が何を考え、どう人生を見つめていたのかを掘り下げていくの はとても興味がわきます。書かれている年齢はかなり近く、自分の実人生と重ね合わせてみることが、そんなに難しくないように思います」と静かに闘志を燃や す。

 また、溝口には「『生きる意味』を捜そうとする孤独な現代の若者と共通性が多い」と宮本氏は指摘する。「常に演技熱心で、捨て身で役に没頭する」と評す森田が体現する溝口の姿から、若者らに自分を見つめ直してほしいようだ。

 共演陣は後日発表される。

◆過去2度の映画化

 三島由紀夫の小説「金閣寺」は、市川雷蔵主演の「炎上」(1958年)、篠田三郎(61)主演の「金閣寺」(76年)で映画化、ドイツでオペラ作 品として上演されている。しかし、その世界観を表現する難しさからか、1957年に新派が舞台化した以外は「あまり例がない」という。

◆4作目の主演舞台 「光栄、身が引き締まる思い」

 森田にとって本作は、「荒神」(05年)、「IZO」(08年)、「血は立ったまま眠っている」(10年)に続き4作目の主演舞台。丸刈りが条件 となるが、「光栄と同時に身の引き締まる思い。日本を代表する作家三島由紀夫の作品を舞台で表現する壮大なプロジェクトのみならず、歴史的事件を考証する ことにもなるから」と意に介していない様子だ。森田の丸刈りは、05年のテレビ朝日系スペシャルドラマ「零のかなたへ~THE WINDS OF  GOD~」以来。

---

『金閣寺』が宮本亜門演出で舞台化!
・・ぜひ見たいものですが、チケット取るのが至難なのでしょうね。ファンクラブに入ってないとダメなんてことになると、絶対無理ですが。
一般人でも取れる、あるいは当日券があるとよいのですけど。(まあ1月に上京なんてそもそも無理かもしれませんが)。
(4年前の、野田・作+蜷川・演出+松潤・主演のワルキューレを想起・・)。

それにしても、森田剛クンの雰囲気は、たしかに雷蔵風で、溝口に向いていそう。
とはいえ、溝口は金閣にのみ対峙するるわけではなく、柏木や老師、母、有為子、などとの人間関係のなかで自己を掘り下げ、金閣との関係も変化していくわけで、これら脇を固める役者たちの顔ぶれも気になるところですね。

2010/07/25

三島由紀夫関係その後

Yellow

暑いですね~。
先週は大荒れの天気だったのに、梅雨明けしたとたん、酷暑。
内陸部では、38度とか39度とか信じられない気温のようですが、広島も暑い!

昨日は、高校生に授業をしました。
先日から資料を作っていて、昨日の朝も4時起きしてパワポに手を入れたりしていましたが、終わってしまうとアッという間です。
でも、なかなかツボをついた質問も複数出て、関心は持ってもらえたようで、よかった。

★「学習院広報」第84号

さて、先日、学習院広報課ブログの「春の雪」舞台についての記事を紹介したところ、何と、広報課の方が当ブログをご覧くださり、『学習院広報』の最新号(第84号)をお贈りくださいました。
思いがけないことで嬉しく、感謝しています。

古典文学者の神田龍身さんの「文学空間としての学習院大学「東別館」-三島由紀夫『春の雪』」が収録されています。
古典の影響の色濃い『春の雪』から、学習院というトポスの意味を丁寧に読み解かれておられ、作品の新しい読み方を教えていただきました。
学習院の内部におられて、一つ一つの場の歴史を熟知しておられる方ならではの読みで、先日のブログの写真とともに貴重だと思います。

(神田さんの、スタッフ紹介のメッセージも、迷いのなかにある自分を認め、学生には「教員の限界を見定めながら、学ぶべきところは学んで、その良いところをちゃっかり盗んでしまう」ことを勧める度量、共感を持って拝読しました。)

この『学習院広報』第84号は、web上でe-bookで読むことができます。ぜひご一読を!

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    曽根麻矢子: バッハ:ゴルトベルク変奏曲
    最近のお気に入りは、曽根麻矢子さん。「イギリス組曲」や「イタリア協奏曲」も素敵ですが、やはりこの1枚がおすすめ。丁寧な演奏と美しい音質にとても好感がもてます。

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    ヨーヨー・マ: ヨーヨー・マ ベスト・コレクション
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    とりあえずデヴィッド・ボウイを聴きたい方へ。変遷を手際よくたどるのに好適!
  • Labyrinth
    Original Soundtrack:David Bowie:

    Labyrinth: From The Original Soundtrack Of The Jim Henson Film

    映画「ラビリンス」のサウンドトラック版。音楽的にもなかなかよい。バブバブ言っているのがボウイだと想像すると微笑ましい。
  • バッハ:ブランデンブルグ交響曲5番
    トレバー・ピノック/イングリッシュ・コンサート:

    Bach: Brandenburg Concertos Nos. 4-6; Triple Concerto BWV 1044

    硬質なカシャカシャとした音が、バロックにとても合っていて、気分が落ち着きまする。
  • Karajan Spectacular
    カラヤン:

    Karajan Spectacular

    そうは言っても、「ワルキューレの騎行」は、クナよりもカラヤンをとりたい。
  • ワーグナー:名演集
    クナッパーツブッシュ/ウィーン・フィル:

    ワーグナー:名演集

    「すばらしい」の一言。夾雑物が何もなく、ワーグナーの音自体が見事に立ち上がってくる。