第七劇場広島公演「班女/邯鄲」
・2012年9月22日(土)19:30-、23日(日)13:00-/18:30-
・広島市東区民文化センター スタジオ
・一般 2000円 / 学生 1000円
・原作
三島由紀夫「近代能楽集」
・構成・演出
美術
鳴海康平
・出演
佐直由佳子、木母千尋、小菅紘史、菊原真結、米谷よう子、伊吹卓光、仲谷智邦、石井萠水
・アフタートーク 鳴海康平×岩崎紀恵
東区民文化センターweb
第七劇場web
せっかく広島で三島作品が見られるので、初日と2日目マチネの2回を見に行きました。
第七劇場の舞台を拝見するのは初めて。
2006年から取り組まれて定評のある「班女」と、新作「邯鄲」の組み合わせです。
『近代能楽集』は三島由紀夫の代表的な戯曲の一つですが、「サド侯爵夫人」や「鹿鳴館」などのある程度上演形態が決まってしまう作品と異なり、能が原曲だということも大きいのでしょう、どのような演出も許容するような変幻自在さ・底無しの可能性を秘めた作品群です。
上演があるたび、戯曲のどんな側面を掘り出してくれるのか楽しみに劇場に向いますが、このたびの第七劇場公演は、これまでの三島舞台にないトーンでの上演でした。
「邯鄲」の上映時間が55分、転換のための5分の休憩をはさんで、「班女」が30分弱。
一般的な『近代能楽集』各作品の上映時間は40~50分といったところですから(「邯鄲」は他作品に比べてやや長め)、かなりスピード感のある上演だと言えましょう。
狭いスタジオ公演、抑えた照明、モノトーンで無機的な装置、電子音も使った音楽、シンプルな衣裳、パフォーマンス・アートな雰囲気の演技、抑揚を抑えた異化的で早口なセリフ。
いわば《モダニズム近代能楽集》・《アバンギャルド近代能楽集》ですね。
そうした試みがより面白く感じられたのは、何度も上演されているという「班女」よりも、むしろ新作「邯鄲」のように思えました。
〈以下、ネタバレあります。〉
「邯鄲」
──自分の人生は終わったと悟りきった青年・次郎が、かつて乳母だった菊が住まう田舎を十年ぶりに訪ねて、菊の持つ邯鄲の枕で眠る。次郎は精霊たちの見せる栄耀栄華の夢をすべて拒否して、「生きたい」と決意し、夢から覚める。すると菊の夫が出ていってから咲くことのなかった庭の花々が一度に咲きほこる。──
舞台上手に机と丸イス、下手に椅子が一つ。机上には積木。
何度も暗転を繰り返し、次郎と菊の二人が対話する冒頭の現実の場面から精霊たち(仮面はつけない)が消えては現れる。
邯鄲の枕による夢の場面では、妻を肉体としての女性と声だけの3人とに分化させ、抱く→倒す→引きずる→抱き起こす動作が繰り返され、日常生活が夢幻的に表現される。
次郎役の小菅紘史と菊役の木母千尋が存在感があり、セリフも実にうまい。金や電話などとして多義的に利用される積木の扱いが楽しい。
次郎の夢のはずなのに、なぜか菊が眠りにつき、次郎の夢の中でも積木を扱っているところなど、よくわからない部分もあったし、初日のためかセリフにつまる役者が散見されたものの、全体として面白い舞台でした。
終演後に演出の鳴海さんとお話させていただき、いろいろとわからなかった部分の意図を伺うことができました。
菊の眠り。あれは、死者に呼びかけていたのだとのこと。
つまり次郎は亡くなっており(→フクシマや震災の死者たちの総体を表し)、菊は死者を悼む親しい者・母的な者の総体であるとのこと。
う~む、なるほど。。
そういえば、冒頭も、まず菊が一人でセリフを語り、暗転の後に次郎が現れて菊が同じセリフを今度は次郎と対話していましたが、死者を識閾下で呼び出したということでしょうか。電子音も病棟の心電図の音のようでもありました。
同じ『近代能楽集』の「葵上」のような霊的な世界や、川端康成の「抒情歌」などに近い世界ですね。
また「班女」「邯鄲」の2作の共通テーマが「待つ」ことだと演出ノートに記しておられ、「班女」はともかく、「邯鄲」で「待つ」とは?と不思議だったのですが、死者を悼み召還することであるとすればよく理解できます。
鳴海さんは、3・11以後、どのように演劇を作っていくか、自分のなかで変わらざるをえなかったと話しておられました。
観客がこうした意図をどれだけ汲むことができたかはわかりませんが、私自身は、こうした『近代能楽集』の大胆な読み替えに意表をつかれ、三島戯曲の新しい解釈として新鮮に感じました。
一方の「班女」。
──扇をとりかわした恋人が現れるのを待ち続ける狂女・花子。花子を「狂気の宝石」だと見なして愛し、共に暮らす中年の画家の実子。二人の前に吉雄が現れるが、花子は彼を本物の吉雄ではないと拒否して、吉雄は去る。花子はこれからも吉雄を待ち続けると述べ、「待つ」花子と「待たない」実子の二人の「すばらしい人生」がはじまる。──
舞台の横一列に3カ所、床に小さなオブジェ(左と中が小石、右が葉付きの枝)、それぞれ上から照明が下ろされる。3人の人物の深層を表している?
とくに花子のセリフが抑揚なく早口。観客にひっかかりをおぼえさせないかのごとく、各場の間もなく、舞台はするすると進行する。
実子が新聞紙を切り裂き、それを花子が雪に見立てる場面はなく、実子がばらまくのは絵の具。実子は赤い絵の具を白い床に絞り、掌で塗りたくり、それを自分の腕や服、頭にこすりつける。
なんともシュール。実子のエキセントリックな要素、あるいは心の傷を表現しているのか?
また、不思議だったのは、舞台の最後に吉雄が退場しないこと。
冒頭の実子の一人語りの場面で、すでに吉雄が舞台後方を通過する。これは、実子と花子の二人の世界に彼が影をさしていることの表現として、とてもうまい演出だと思う。
だが、結末は、ずっと影を落としていた吉雄が敗北し退場して、実子と花子の二人だけの幸福な世界に結実させなくてはいけないのではないか?
花子「私は待つ」
実子「私は何も待たない」
花子「私は待つ。……こうして今日も日が暮れるのね」
実子「(目をかがやかせて)すばらしい人生!」
ところが戯曲とは違って、幕切れの実子は少しも楽しそうではない。
吉雄が舞台上にとどまることとあいまって、最終的にもまだ二人の世界にはなりきっていないという解釈なのだろうか? だとするとなぜ?
・・・正直なところ、「班女」の舞台は、頭に疑問符を浮かべつつ見ていました。
実子の絵の具について。
アフタートークの鳴海さんの説明によれば、吉雄の経済性や現実性に対して、実子は芸術家としての三島と重ねられているとのこと。
(実子=三島だとすれば、赤は三島の死のイメージなのだろうか?)
また、上演後にお話したところでは、結末に吉雄が退場しなかったのは、待つ対象を消すことなく、花子の「待つ」姿勢を純粋なものにしたかったからだとのこと。
実子の最後の語りも、けっして吉雄がいなくなってハッピー!というイメージにはしたくなかったと話しておられました。
・・・でもやはり、違和感は残ります。ただ私自身に、かくあるべしという「班女」像が固着しているのかもしれません。戯曲を再読してみようと思います。
アフタートークでも色々な話題が出ましたが、鳴海さんが語る「班女」演出の変遷が面白かったです。
「葵上」はある程度行き着くところまでいった感があるが、「班女」は上演を繰り返すたびに発展し見えてくるものがあるとのこと。
以前の「班女」演出は、師事していた鈴木忠志さんの影響もあって、和服や白塗りなど様式的な〈和〉の世界で作っていた。しかし、海外上演が重なるにつれてオリエンタルな見せ方が安易に感じられて排するようになり、モダンな舞台に転じたところで赤い絵の具を使った演出を着想したとのことでした。
今回の舞台、私自身は「班女」の解釈には違和を感じるところもありましたが、観劇後に種々の思いがわきおこり、人と話したくなる、そんな実験的な舞台でした。
鳴海さんは、まだ32歳とのこと。これからますます期待できる演劇人ですね。
※12月に「三島ル。」公演。
愛知・三重で、第七劇場とshelfの2劇団による『近代能楽集』の公演があるようです。
・長久手市文化の家 12月1日・2日・・「班女」(第七劇場)・「弱法師」(shelf)
・三重県文化会館 12月8日・9日・・「班女」(shelf)・「邯鄲」(第七劇場)
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