映画「11.25 自決の日-三島由紀夫と若者たち」
若松孝二監督の映画「11・25自決の日 三島由紀夫と若者たち」。
広島上映は7月7日からなので、出張先で見てきた。
この映画には、「書く人」としての三島由紀夫は登場しない。
三島由紀夫といえば、小説家、劇作家にして、演出家。写真集の被写体になり、映画や演劇に出演し、主題歌まで歌った。社交的で座談の名手で、英語でスピーチ。歌舞伎や能を愛好し、一方で流行を知悉し、アングラな芸術家とも交流が深く、独自の美学やエロスも追求した。
三島由紀夫の魅力は、ニヒリストであり、かつ真摯な行動者であり、突き動かされるようなパッションと天才的なストーリーテラーと、人生を舞台だと見なして己を操るなど、豊かな多面性にあり、その三島があのような最期を迎えたからこそ、人々はたいへんな衝撃を受けたのだ。
ところが、この映画の三島由紀夫には多面的世界は全くない。
1966年から1970年の最後の蹶起に向かって、ただひたすら突き進む三島と、彼をとりまく若者たちが描かれるのみ。
実際には、三島は死の直前まで『豊饒の海』の原稿に取り組み、演劇とも深く関わり、人々と会って盛んに活動していたが、そうした三島の姿はほとんど描かれることはない。もちろん、三島の有名な哄笑も、ユーモラスで洒脱な会話もない。
象徴的なのが、三島の書斎のセット。大机が置かれ、その上に三島愛用のピース丸缶はあれども、あれは仕事をする人の机ではない。背面に作り付けの書棚もない。本棚は横の壁に申しわけ程度に1棚置かれているだけ。篠山紀信の『三島由紀夫の家』ぐらい参照してほしかった・・。
東大全共闘との討論についても同様。映画からは三島の誠実さは伝わるが、三島のケタ違いのクレバーさや学生たち相手に見せる余裕は全く感じられない。
(パンフレットによれば、三島役の井浦新は、あえて他の資料に当たることなく、台本だけを読み込んだとのこと。それでは、作家としての三島由紀夫が役者の身体からにじみ出るはずがないだろう)。
11月25日の朝、書斎の机に『豊饒の海』最終回の原稿用紙が残されているが、置かれているのは、「『豊饒の海』完」という最後の1枚。実際には『豊饒の海』原稿は厳重に二重封筒に入れられて厳封されていたのだが、それでは絵にならないにせよ、いくらなんでも最後の1枚が一番上に置かれているわけはないだろう。
エンド・ロールで、三島が生涯をかけて書いた作品群のタイトルが流れたが、本編で「憂国」や「英霊の声」以外の作品が出てこないのだから、とってつけたよう。『豊饒の海』4巻も、各作品名ではなく、「豊饒の海」として一括して出されるだけだし。
三島が文学者として相応の仕事をしていることは当然の常識であり、その前提の上に映画が作られているというつもりかもしれないが、そうであっても、豊かな芸術的世界を持っていた三島がそれを切り捨てて最期の行動に走ったことを、映画としては当然映し出すべきであろう。
要するに、これは、多面的な三島由紀夫のなかの一面だけを切り取ったものであり、つまりは森田必勝ら楯の会の学生たちが見た三島由紀夫像なのだ。
映画のなかで、森田は三島の小説を読んでもわからない、と述べていた。三島の芸術作品や美的生活を理解できない人間にはこのように見えたのであろう、行動の人・憂国の士としての三島の一面を拡大して作った映画なのだ。
エロスについても同様。
サウナのなかで腰にタオルを巻いただけの裸で蹶起の計画を話し合う三島や若者たち。
ここにホモエロティックな要素を見て取れと暗示しているのか、まったくそのような要素は含んでないのか、なんとも判断のしようのない映画であった。
若松孝二の「実録・連合赤軍-あさま山荘への道程」については相当に評価し、「11.25 自決の日」はこれと対になる映画だとのことで期待していたのだが、まことに残念。
同じく作家・三島由紀夫を素材とした映画に、ポール・シュレイダーの「MISHIMA」があり、三島の生涯と、蹶起の1日の行動と、三島が残した作品と、三つの世界がコラージュして作られていた。
二つの映画ともに出てくる挿話のうち、たとえば三島と楯の会会員の若者たちが血書の署名をする場面。
「11.25自決の日」では、ひたすら生真面目。
「MISHIMA」では、互いの血を混ぜるだけに、「誰かこのなかに変な病気をもってる奴はいないだろうな」といった冗談を三島(緒方拳)が言って、若者たちを笑わせる。
どちらが実際の三島に近かったのか、明らかだろう。
私には、三島の多面的な豊饒さ、驚くべき才能、感受性、ひ弱さやコンプレックス、エロスをも含めて表出されていた「MISHIMA」の方が断然好みである。
・・というわけで、全体的な評価は上記のとおりだが、もう少し「11.25 自決の日」について。
俳優は熱演していた。井浦新は、最初、三島には見えないと思っていたが、楯の会結成のあたりから、行動の人・憂国の人としての三島になったように思う。
満島真之介も、「三島先生のために自分はいつでも命を捨てます」とてらいなく言い、三島を死においやる「純真」な森田必勝になっていた。
国際反戦デーなどの資料映像を効果的に挿入しており、蹶起に至る過程がわかりやすかったし、金嬉老事件やよど号ハイジャックについての三島の認識の判断も面白かった。また、三島邸を訪ねた少年が「先生はいつ死ぬんですか」と尋ねたという、三島の最晩年のエッセイ「独楽」の挿話を使い、その少年を映画冒頭の浅沼暗殺事件の山口二矢と同じ役者を使ったのも巧みだった。
寺島しのぶが三島夫人・瑤子を演じるが、自衛隊体験入隊以降ふっつりと出なくなり、三島自決後の最終場面で再登場するあたりも、楯の会が男同士の絆の集団であることを如実に示し、それを相対化する役目を果していた。
評価すべき点もあるものの、あまりに一面的な三島像にへきえき、というのが正直な感想。
もっとも、行動者としての三島を崇拝している人たちには、文学研究者の描く三島像もまた同様に一面的で違和感を感じさせるものなのかもしれないなあ。
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コメント
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梅雨明けしましたね
いよいよ本格的な夏到来です。
映画は観ておりませんので、何とも言えませんが、作家である三島をはずして三島像というのも極端な感じがします。
といっても、本を読まない人の三島由紀夫像ということなのかもしれません。
一冊も読まないで、ああ、こんな人なんでしょって言う人もいて、読んでから決めればいいのにと思ったことがあります。あくまでも個人の話ですが。
話変わりますが、ネット上やメールだけで夏のご挨拶も無粋かと思い、近日、便りがそちらに届くと思います。PCに慣れますと、漢字が出てこないものですね。乱文ですが、笑って受け取ってやってくださいませ。
投稿: にっちゃん | 2012/07/17 22:26
にっちゃんさん、映画評を見てても高評の方もいますしね。まあ人それぞれです。
サロンシネマで、いまこの映画に関連して、「炎上」「剣」「からっ風野郎」「潮騒」(吉永小百合)の三島映画特集を1週間限定でやっているようです。私は「剣」を見たいと思ってます。
ご挨拶状をいただけるとのこと、どうもありがとう! 楽しみに待ってます。
たしかに電子メール時代に入り、私もメール以外の便りを出すのがめっきりおっくうになってしまい、出さねばならない礼状がたまってます。。書かねば。。
投稿: NAGI | 2012/07/18 00:09