夏休みの宿題
中2の娘の学校は、平和学習がさかんだ。
学期中も頻繁に行事があるし、休み期間にも課題が出る。
昨年の夏休みは「身近な人と平和公園・平和資料館に行く」という課題で、私も同行した。
今年の課題は、「記憶の継承-身近な人に戦争の時代の体験を聞く」というもの。
ちょうどお盆に実家に招かれたので、娘は祖父母に話を聞かせてもらうように頼み、快諾してもらっていた。
お昼ごはんのあと、スタート。娘は、録音とメモをとりながら聴く。
私も昔、両親の体験を断片的に聞いたことはあったけど、まとまって聴くのは初めて。
まずは、おじいちゃん。
終戦のときは15歳、岡山で師範予科の学生だった。
学校が戦時短縮されて最後の1年は授業もなく、水島の軍需工場に学徒動員され、爆撃機の風防の艤装をしていた。手袋をはめることも許されない作業(それでも作業に習熟して工員に認められると嬉しかったし、班員は仲がよかった)、虱だらけの寮生活、ビンタをする上級生。
工場の食事は、コーリャンか麦飯が少しとイカナゴの煮つけぐらい。いつも腹をすかせて働いていた。
食糧不足のため、工場が稼働しない週末は帰郷させられ、毎週金曜日の5時に工場が終わると、汽車を乗り継ぎ、3里の山道を歩いて、夜中の2時過ぎに県北の家に戻った。
お土産に母親が煎米や煎大豆を持たせてくれ、寮の同室の5人と食べた。
飛行場で遇った兵士が、この戦争には負けると話したが、おじいちゃんたち学徒には信じられず、「神国日本が負けるはずはない」と答えた。(兵士は、ミッドウエイ海戦にも参戦したが、空母がみんなやられてしまって、自分たちはこんな田舎で飛行機の整備をしている、勝てるはずがないと話していた)。
昭和20年6月に水島工場が爆撃で壊滅状態になったが、たまたま帰省していて助かった。寮にいたら確実に死んでいた。
その後は、別の工場にも行ったが、部品もなく、ほとんど仕事がなかった。
敗戦後は復学して、師範の本科に進学。だが、予科は戦時短縮されて勉強が十分ではなかったために進学できなかった同級生もいたし、運よく進学できたおじいちゃんも英語などに苦労した。
続いて、おばあちゃんも話に加わった。
終戦のときは、12歳。岡山県北の国民学校6年生。
昭和20年、かわいがっていた末の弟(賢二)が死んだことが、いちばん辛かった。5歳だった。
百日咳にかかったが、戦争で医者は出征して町に不在、薬もなかった。咳がひどいため背中をさすってやり、遠くの薬局まで行って、米と交換でビタミン剤をもらい、看護婦に注射してもらった。そんな気休めでは治らず、肺炎になり、やせ細って亡くなった。
明るくて、上の弟が小学校に入る前に字を教わっているのを傍らで見ていて、先に覚えてしまうような頭のよい子だった。
近所でも、小さい子どもが次々と亡くなった。
町で出征する者がいると、小学生が招集され、整列して一緒に神社にお参りして見送った。白木の箱に入って戻る戦死者を迎えるときにも、小学校の講堂で式があった。
大阪や東京から集団疎開してきた子どもたちもいて、寺に泊まっていた。
学校の昼食時には、自分は家が近いから食べに戻っていたが、農家か否かによって、お弁当の中身がだいぶ違っていたようだ。
田舎だから空襲には遭わなかったが、夜にはB29が上空を飛んでいくのが聞こえた。
家の窓ガラスには×にテープを張って割れないようにし、明かりがもれないように暗幕をひいていた。
防火演習や竹槍の訓練もしたし、学校の校庭の周りは耕して芋を植えていた。おやつはさつま芋かカボチャを蒸かしたものか、煎り豆だった。
おばあちゃんの父親には昭和20年に赤紙が来た。広島に配属されて通信兵になることが決まっていたが、出征する直前に敗戦になった。
学校に集められて玉音放送は聞いたが、雑音だらけで全く意味はわからなかった。
敗戦後は、小学校の校庭で歴史の教科書や教室の大地図などが集められて、みんなで焼いた。
戦争中よりむしろ戦後の方が治安が悪くなり、先生に引率されて集団下校をしていた。
・・・・こんな話。
二人とも、田舎だったので、空襲にもあわず、食糧も当時としては恵まれていたようだ。
とはいえ、死は間近にあり、子どもたちは「日本が負けるはずはない」と信じていた。(おじいちゃんは、戦争末期には、軍需工場に納品される精密部品の質が低下して、こんなことで大丈夫か?と薄々は思ったようだし、おばあちゃんも、空から爆弾が降ってくるのに、竹槍でアメリカ兵を突く訓練をしても役にはたつまいと思ってはいたが、それでも、神国日本を信じていたし、憲兵も怖かった)。
子どもたちが、銃後にあって、学徒動員で爆撃機を作らされ、国威発揚の場に駆り出され、被害者であるとともに、加害の片棒も担がされている。
およそ1時間半。娘は、わからない言葉や状況を尋ねたりしながら、2人の話を聴き、帰宅後、忘れないうちにとレポートをまとめていた。
父は80歳、母は77歳。娘から話を聞かせてほしいと頼まれて、話すのが苦手な母はメモを作って待っており、両親とも予め何を話すか考えていたようだ。
娘にとっても、両親にとっても、そして側で聴いていた私にとっても、記憶に残る時間となった。ありがたい夏休みの宿題である。
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