新国立劇場『近代能楽集』
・2008年9月25日~10月13日
・新国立劇場
・作:三島由紀夫
・演出:『綾の鼓』前田司郎、『弱法師』深津篤史
・キャスト:
『綾の鼓』綿引勝彦・国広富之・金替康博・奥田洋平・岡野真那美・内田亜希・多岐川裕美・十朱幸代
『弱法師』木村 了・国広富之・鶴田忍・一柳みる・多岐川裕美・十朱幸代
⇒公演概要 ⇒舞台写真
薄れた記憶を呼び起こしつつの、覚書?シリーズ。
『綾の鼓』の舞台を見るのは、2回目。
『綾の鼓』は、戯曲として読むと面白いのだが、なかなか上演されない。
最初に観たのは、昨年亡くなった山口小夜子さんが「華子」を演じた「昴」公演だった。もう18年も前のこと。
『綾の鼓』の華子は、前半の場では、一言も言葉を発しない。後半のセリフにはやや難があったものの、美しく圧倒的な存在感を示していた山口小夜子の華子は、今も印象に残っている。
さて、今公演の特徴は、上手・下手の二つの部屋を全く仕切っていなかったこと。
『綾の鼓』の舞台は、戯曲で次のように設定されている。
中央は街路の中空。両側のビルの三階の向い合わせの窓と看板。
下手は三階の法律事務所。古ぼけた部屋。善意の部屋。真実の部屋。桂の樹の植木鉢がある。
上手は三階の洋裁店。最新流行の部屋。悪意の部屋。虚偽の部屋。大きな姿見がある。
本公演では、二つの部屋を区切ることなく、平舞台のまま使用。セットも、下手に机と桂の鉢、上手に上品なイスとテーブルのセットが置かれるぐらい。
舞台中央奥に大きな垂れ幕がかかり、そこに、「下手は・・・善意の部屋・・。上手は・・・悪意の部屋。・・」云々の説明が書かれていた。
ちょっと言い訳がましい。
二つの部屋があれば、二つの異質な世界のぶつかり合いが可視化されるのだが、なぜ部屋を仕切らなかったのか、その理由が見ていても伝わってこない。善意とか悪意とかいった見やすい対立も表面的なことにすぎないということなのだろうけど、三島の意図した劇的世界を生かしたほうがよかったのではないか。
また、部屋が仕切られていないためか、二つの部屋の人物同士が、お互いに呼びかけあうときにも向かい合わず、観客の方を向いて話すのも違和感があったし、窓を開けるのもパントマイムで、どうしても偽物くさくなってしまったのが難。
それから、最後の鼓は、100回打たれることなく、99回で終わってしまっていたのではないだろうか。
そんな細かいことが気になって、劇の世界に入りきれなかった。
役者の中では、踊りの師匠をやった国広富之が美味しい役柄。ボンボンの薄っぺらい底意地の悪さが滲み出ていた。
十朱幸代は、意外に(といっては失礼だけど)よかったのだけど、でも、たぶん『黒蜥蜴』の緑川夫人のような役が似合うのではないか。
『弱法師』。
休憩時間の間に、『綾の鼓』の幾何学模様の敷石のような床板を剥がし、床がカラフルなタイルに変貌。
登場した川島・高安の両夫婦は、黒地に赤・緑・オレンジ・黄の派手なラインの服に、顔は白塗り。
また、この作品でも役者同士は互いに向かい合うことなく、客席に向かって話す。
これらすべてが、単に奇をてらっただけのようで、意味というか、効果がわからなかった。
木村了はよかったと思う。
最後の終末の景色のセリフは、もっとたたみかけるようであってほしかったし、やや一本調子でもあったが、セリフによってイメージを浮かび上がらせる技量があった。
ただ、なぜ『弱法師』だったのか。蜷川演出の鮮やかさとあいまった、藤原竜也のイメージがあまりに濃厚なので、ちょっと気の毒。『邯鄲』あたりがよかったのではないだろうか。
二つの芝居とも、セリフは聞き取りやすかったし、キチンと演じられてはいたのだが、なぜこうした形態での上演なのか、ハッキリとした世界観が感じられなかったところに、もの足りなさを覚えた。
⇒読売
⇒朝日
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開場前に時間があったので、新国立劇場の上階にある情報センターに行ってみた。
レパートリーのいくつかや、市販の演劇DVDの映像を、リストのなかから自由に選んでビデオブースで見ることができる仕組み。(無料)。観たかった『屋上庭園』を楽しめました。
バレエやオペラに比べて、演劇の映像本数が少ないが、それは許可がとりにくいためだとか。また、毎日、視聴に通う人もいるらしい。
受付の係の方々もとても親切で、東京で時間が空いたら、また行きたいものです。
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