映画:実録・連合赤軍-あさま山荘への道程
・監督:若松孝二
・出演:坂井真紀(遠山美枝子)、伴杏里(重信房子)、ARATA(坂口弘)、地曵豪(森恒夫)、並木愛枝(永田洋子)、大西信満(坂東國男)、タモト清嵐(加藤元久)、奥貫薫(あさま山荘管理人)、原田芳雄(ナレーション)ほか
重い。
3時間10分の長尺だったが、長さを感じず見入ってしまった。
1972年の「あさま山荘事件」は、子どもだった私もハッキリと覚えている。
とにかく、学校から帰ってテレビをつけると、どのチャンネルもすべて「あさま山荘」を実況していた。大鉄球が山荘の壁に大きくぶつかり、窓から催涙弾の煙が立ち上がる。
そして、その後に発覚した「総括」という名の仲間同士による凄惨な粛清も。
連日、懸命に新聞を読んだことも覚えている。社会を変革しようとした者たちがなぜこのようなことを、という疑念はずっと残っていた。
若松監督は、そうした彼らの、まさに「あさま山荘までの道程」を、事実を追いながら、しかし目を背けることなく直視して撮っている。
前半は、60年安保闘争・樺美智子の死から、連合赤軍結成までの動きを、ニュース映像をまじえながら紹介。
中盤は、榛名ベースでのすさまじいまでの「総括」の様相を、重信房子の親友だった遠山美枝子の死を軸に。
後半は、仲間たちが次々と逮捕され、あさま山荘に立て籠もった坂口ら5人を、山荘の内側から描いていく。
「狂気」と片づけるのは簡単だ。
リーダーの森恒夫と永田洋子の個人的資質が大きいのは確かだろう。それぞれコンプレックスをかかえもち、集団のなかでリーダーとしての優位性を確認する必要があった。それには誰かを生贄にして、集団で排除するのが簡単だ。そこにさらに、連合赤軍内部における赤軍派と革命左派との2派の、微妙な勢力争いが加わる。
社会から隔絶・孤立したアジトの中で、正常な判断能力は失われ、リーダーの決定に「異議なし!」と言い追従しなければ、次は自分が標的になる。
「総括」とは具体的にどうすることなのか、正解などなく、どんなコトバを口にだしても否定される。
「仲間」だと思っていた者たちにリンチを受け、殺されることがわかるとき、どんなに恐ろしく絶望したことか。
遠く明治の自由民権運動から、つねに反権力運動には、資金獲得のための強奪計画があった。あるいは、内ゲバ。
しかし、ここまで凄惨なリンチがなぜなされたのか。
加藤三兄弟の未成年の末弟が最後に口にしていた「俺たち、みんな、勇気がなかったんだ」というコトバが痛い。
それにしても、役者たちの顔つきが違っていた。今どきの役者とは思えない凄味がある。ギリギリに追い詰められた状況が持たせた目なのだろう。
若松監督の、どうしても撮らなければならないという執念が伝わってきた。
手記などの文字資料とは異なり、映画でしか表現できないものがある。若さの純粋と狂気を描く青春群像としても、1972年にいたる時代の力を想起させるという点でも、映像の力は大きい。
広島では、サロンシネマ1にて、6月13日(金)まで。間に合う方は、ぜひ。
若松孝二 実録・連合赤軍 あさま山荘への道程 「実録・連合赤軍」編集委員会+掛川正幸 朝日新聞社 2008-02-20 by G-Tools |
↑映画館でパンフ代わりに置いてあったけど、市販もされているもよう。
厚くて、資料としても充実している。重信房子(「なぜ我ではなく君だったのか」)や吉野雅邦の獄中からの寄稿や坂口弘の短歌も載っており、読みふけってしまった。(まだ全部はとても読みきれない)。
私が大学に入った頃には、まだ学内にタテカンやビラがあった。大学院(今の勤務校)では、ヘルメットにマスクをした人たちも残存していた。
「バリケード封鎖列伝」には、私の母校二つの知らなかった歴史も掲載されている。
対して、いまの清潔な大学が目に浮かぶ。学費の値上げや管理の徹底など、ある意味、当時よりも状況はひどくなってきているのに。
「1960-1972 連合赤軍 全記録」には、1970年11月25日の三島事件も記述されている。
左派の動きを含めた時代相抜きに三島の行動を考えることはできない、と映画を見ながら再確認した。もちろん分かりきっていることではあるのだけど。
三島の全共闘に対する《天皇と諸君が一言言ってくれれば、私は喜んで諸君と手をつなぐ》という発言も、昭和40年以降の三島が、かつてエロスの発現として描いた小説「憂国」を意味づけ直し、昭和維新たる二・二六事件を評価して「純粋行為」といった行動へと傾斜していくのも、根っこは同じなのだ。
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