セクハラ、アカハラ
⇒河北新報2005年2月25日(会員登録制、無料)
⇒asahi.com2005年3月21日
⇒web報知2005年3月21日
私はこの件の実態を知らない。知りようがない。
だが、同様に無関係な人々が、この件、あるいはセクハラ一般について、「はめられたのだろう」「女はこわい」「学内政治がからんでるのではないか」「ふつうなら守ってもらえるのに、運が悪い」!みたいなことを言っているらしいのを見聞すると、どうもなあ・・と思わざるをえない。
そうした声が被害者をもう一度傷つけるのだ、ということに無感覚なことに呆れるとともに、ご自分たちがそういう立場になったときの先走った言い訳をしているようなさもしさを感じるのだ。
それとは別に、私の勤務校で、先日、新1年生のチューターを対象に、カウンセラーやハラスメント関係の専従者による勉強会があって参加した。その席で、「今まではゼミ生は男子学生がほとんどだったのに、来年度は女子学生が多い。セクハラだと思われないために予防策はあるのか?」みたいな質問をする中高年男性教員がいて、これまた、やれやれ、、である。
「予防策」なんていう考え方が小手先だ。
対女子学生だとセクハラ対策せねばならないと思っているようだが、じゃあ男子学生には何の「予防」も「心構え」もないまま対応しているのか? 男性教員が男子学生に対してアカハラ(アカデミック・ハラスメント)することも十分あるわけで、自分が教員だという自覚をキチンともっていれば、ハラスメント自体がおきないはずなのだ。
教員としての自覚というのは、自分が評価する側に立っており、いやおうなく相対的に権力を持つ側として存在しているということを知覚すること。つまり、自分は無意識にとっているかもしれない言動であっても、学生はそれを負荷として感じているかもしれないということを知り、負荷をかけないような言動をとるべく努力することだ。
そして、教員の自覚をもって対応することと、学生とフランクに・フレンドリーに語り合いつきあうことはもちろん両立する。迎合とは全く違う。
「自由恋愛」もダメなのか?なんてのもよく聞くけど、指導教員と学生の間に本当に対等で自由な恋愛が成り立ちうるのかははなはだ疑問。
もし学生が自分に好意をよせているとするならば、素の自分自身(そんなものがあるのかも疑問だが)に対するものではなく、教員としての立場抜きには成立しない、ということを知覚しておくべきだろう。にもかかわらず関係をもつことが「環境型セクハラ」であるというのは、企業研修などの教材では、もはや常識になっている。
たしかに以前は、教員と学生の恋愛や結婚はときにあった。(ロマンチックな恋愛譚として語られることもあるが、「○○先生は、奥さんの卒論を書いてあげたんだって」みたいなテクハラ(テクスチュアル・ハラスメント)な尾ひれがついて伝説化することもおうおうにしてある。また、同級生などからは、あんな人でも学生からは魅力的に見えるのかねえ、、なーんてことを言われたりもする。そもそも以前から、子弟間結婚の評価は諸刃の剣だったのだ)。
しかし、もう時代が違う。
そういう点では、さきほどは茶化したけど、「予防」策をこうじようと思う教員はまだマシなのだろう。(ま、「私はセクハラするような人間じゃありませんよ」と周囲にアピールしているだけのようにも見えるけど)。
実際のところ、どこの大学にも(もちろん大学に限らず、どの社会にもいるのだろうけど)、人を上下関係でしか見ることができず、イヤガラセすることでしか自己確認できないパワハラ人間や、怪文書まきちらすような人格障害としかいいようのない人物が、現実にのうのうと生存し、そのことを知らない人たちからはそれなりに尊敬されたりもしているのだ。
そして、キャンパス・セクハラについて言えば、研究者を養成するような大学(つまり、ある程度偏差値の高い大学、とくに大学院)で起る確率が高いように思う。
少子化時代の昨今、中下位の学校では、それこそ学生はお客様=神様であって、彼ら・彼女らの評判を落すことを避けることにやっきになっている。アカハラを生み出す環境ではなくなってきているのだ。(ただ、学生をバカにしつつお客さん扱いしている教員や、逆にはれものにさわるような扱いをする教員もいないわけではなく、それはそれでかなり問題だなのだが。)
だが、それより大きいのは、学校による教員と学生との関係格差だ。たとえば短大では、ある教員による成績評価は単にその短大での評価であるだけだが、研究者養成校だとそれだけではない。
『キャンパス性差別事情―ストップ・ザ・アカハラ』の中で、江原由美子さんが「〈アカハラ〉を解決困難にする大学社会の構造体質」を説明している。一つは、「教員個人の裁量の余地の大きさ」。もう一つは、大学社会が、「大学組織」と「複数の大学組織にまたがる特定の専門領域の「研究者集団」」との「二重の世界」で成り立っているため、被害者は加害者の影響力から逃れうる可能性がほとんどなくなってしまうこと。たとえ、ある大学組織から逃れられたとしても、その専門領域で研究する限り、研究者集団の中で加害者から逃れることができない。
最前から教員=研究者の「自覚」と言っているのはそのことなのだ。その自覚が足りなかったり、逆に十分に自分のもつ力のうまみ(世の中全体から見れば微々たるものなのに、ご大層な力をもっていると過信している)を意識して行使しようとする場合に、セクハラ・アカハラ・パワハラ言動をしてしまう。
外の風に当たることなく、たとえば大学院からすぐに研究者養成大学に勤務したような場合、あまりにどっぷりとそうした構造のなかにつかりつづけて、感覚がマヒしてしまうのではないだろうか。
たとえば、立場に対する敬意や畏怖を、好意だと誤解する。あるいは、自分に向けられた好意的視線が、自分の立場や力に対してのものだということへの無自覚・・。
私自身は、かなりかなり外の風にあたり、痛みも受けてきた人間だ。
だが、他人ごとではない。自戒をこめて--想像力をはたらかせ、かつ、謙虚に。
・・・にしても、この件。やはり死ぬべきではない。とどうしても思う。
報道されたことが事実ならば、「指導教官を降りる」などと地位を利用して圧迫していて、典型的なキャンパス・セクハラだ。被害者の痛みを知り、自分の言動が引き起こした傷をずっと抱え持って、それでも反省しながら生きつづけるべきではないか。
あるいは、もし仮に本当にやっていないとするならば、生きて訴えるべきだろう。
大学組織と研究者集団との二重構造のなか、評価がいちど落ちてしまったあと(こういう話題を噂するの好きな人、多いものね)、生き抜くことの困難さに絶望的になったのかもしれない。が、、研究者ムラの中でしか生きていけないと思い込んでいる、温室栽培のような弱さを感じる。
いずれにせよ、この件については、憶測の域を出ない。
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京大・矢野事件―キャンパス・セクハラ裁判の問うたもの 小野 和子 インパクト出版会 1998-09 by G-Tools |
もう一つ、キャンパス・セクハラではないけど、横山ノック事件の被害者・田中萌子さんの『知事のセクハラ私の闘い』も必読。被害者の痛みを知ることによって、自らが何をすべきなのか、何をすべきではないのか、おのずとわかるだろう。要は、人として当然持つべき想像力の問題なのだ。
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