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2004/10/26

おひとりさま

今夜、「“おひとりさま”のススメ」なる番組があるらしい。(たぶん見られないなあ、録画しとくかな。録っといても見るヒマがない)。

一人で旅したり、食事のために店に入ったりする「おひとりさま」が、最近「静かなブーム」だということは、以前にも雑誌や新聞などで聞いたことがあった。

奈良に行ったときにも、それは感じた。ホテルで朝食をとっている「おひとりさま」が、けっこう多いのだ。それも老若問わず、女性が多い。
もちろん、家族連れやカップル、熟年夫婦、女性グループ、男性ビジネスマングループなんてのもいたけど、「あー、今、「おひとりさま」が流行ってるってホントなんだ」と思うぐらいは、一人の人が多かった。
かくいう私も(仕事がらみとはいえ)「おひとりさま」だったわけで。

私の場合は昔からのこと。
一人の方が気兼ねなく、自分のペースで、思ったとおりに行動できるしね。
「みんなといっしょ」から、個を自覚し、「ひとりであることを大切に」するように、ようやくなったのか。

おひとりさま向上委員会によれば、その定義は以下のごとし。

「おひとりさま」の5つの定義
 1 「個」の確立ができている大人の女性
 2 「自他共存」していくための、ひとつの知恵
 3 仕事も恋もサクセスするために身につけるべき生き方の哲学
 4 individual
 5 通常は、一人客に対する呼称
(岩下久美子著「おひとりさま」中央公論新社より抜粋)

なるほどね。
いつも一人じゃ淋しいこともあるかもしれないけど、仲間や家族といっしょのときもあり、ベースは一人、というのがいいと思う。

とはいえ、子育て中は、なかなか「おひとりさま」なんて難しいのだけどね。

2004/10/25

奈良:『豊饒の海』の舞台

三島由紀夫の遺作『豊饒の海』の作中の寺や神社のモデルが奈良にある。

まず、綾倉聡子が剃髪し、のちに門跡となった月修寺のモデルが円照寺。

enshoji-00.bmp
奈良市郊外の田園地帯、「大和は国のまほろば・・・」なんていう野田秀樹のセリフが聞こえてきそうなのどかな場所から、田の中の道を入っていく。

秋とはいえ、日がカッと照って、暑い。
田園にススキがゆれ、近所の子どもたちが遊ぶ声が聞こえる。

enshoji-0.jpg
清顕が、本多が、歩いた道。

このあたりから少しずつ情緒は出てくるが、熱に冒された清顕が懸命に上るような、「登攀」のイメージはなく、なだらかな道が続く。
夏ならば両側の木立からさぞかし蝉時雨れが聞こえるのだろうな。
田んぼ道が暑かったので、木立に入ってシンとした空気がとても気持ちよい。


enshoji-2.jpgいよいよ円照寺の門に到着。
門には「圓照寺門跡」の筆書きの表札がかかる。
しばらく門の中に入らず、門の外側からの景観を楽しむ。
古く、でも新しい、いかにも歴史ある尼寺の風情が好ましい。

enshoji-3.jpg拝観を許可しておらず、中を見せていただけないのが、本当に残念。
清顕が訪ねたときのように、正面の障子はピタリと閉まっていた。
お庭を拝見したかったなあ。
でも、見せていただけないからこそ、ゆかしくなるのだろう。


isagawajinja.jpg
一方、奈良市内、JR・近鉄両奈良駅からすぐ近くにある率川神社(いざがわじんじゃ)。
三輪明神・大神神社(おおみわじんじゃ)の摂社で、奈良市最古の神社。
『豊饒の海』第二巻『奔馬』の主人公である飯沼勲や鬼頭槇子が信仰し、百合の花は重要な要素となる。
毎年6月に行われる百合の三枝祭に参列したいと思った。

2004/10/23

久しぶりの一人の家

ダンナと娘が、少年自然の家の親子キャンプでお泊まり。
私は、今日は仕事が入っていてパス。

帰宅したとき、とても静かだと思った。
夜、一人で家にいることなんて、いつ以来だろう。
私が出張してよそに泊まって一人、というのはあったけど、家で一人なんて、娘が生れてからほとんど記憶にないなあ。。

2004/10/22

日本近代文学会(於・奈良大学)

先週末、日本近代文学会秋季大会に行った(於・奈良大学)。

文学研究の方向性がますます見えなくなってきた印象。
みんなが同じ方向を向いているのも気持ち悪いけど、どっちに向って歩いて行っても不安にかられそうな、そんな状況に文学と文学研究がおかれている。会場に熱気がない。

文化研究的な方向は、資料を探し出してきて本人は満足しているのかもしれないけれど、引用してきている作品自体の読みは表面だけで深みがない。大家たちは相変わらず悠々としたもので、発表というよりは、講義か啓蒙活動のよう。

結局は時間がかかっても、作品自体の読みで勝負すべきなのだなあ、と悟った2日間だった。

2004/10/13

久闊

前の前の勤務先の同僚に、久しぶりにお会いした。
名古屋から仕事で広島に来られたのだ。
私が名古屋を離れて11年。その間、3度ばかりお会いする機会があったのだが、前回お目にかかったのは、旧勤務校が同窓生や旧職員を招いて催したホームカミングデイという会だった。

それから5年。
久しぶりなのだが、お会いすると話がはずんだ。不思議なものだ。
私にとっては初めての勤め先で、本当に色々とお世話になった方だからだろうか。元の同僚というのは、数年ぶりにお会いしても、いまも一緒に仕事をしているような気分になる。

お話しているうちに、あっと言う間に時間がたってしまった。
旧勤務校、文化系のたいへんな状況の中、内部ではいろいろとあるにせよ、改革が比較的うまく進んでいるということ。外に出てしまった身だけれども、とてもうれしい。私がいた頃とは学科も学部も構成員がだいぶ変わってしまったが、ほかの元同僚の方のお話をうかがっても、それぞれ変化もあり、人生いろいろだなあと思う。

次にお会いできるのは、いつだろうか。そして、それぞれどのように歩んでいるのだろうか。

2004/10/09

記念撮影の花?

某授与式に出席した。
私は授与する側でもされる側でもなく、お祝いの気持ちをもって臨んだ、ただの陪席者である。
30数名の方々に証書が渡され、厳粛に式は終わり、続いて記念撮影に移る。

テキパキと授与台が脇にかたづけられ、演台の前に椅子が10脚並べられ、その横に生花が飾られた。
アカデミックなマントと帽子?をつけた7人のお偉いさんが(席順をめぐる微妙にして暗黙の闘争のあと)中央から順に椅子に腰掛ける。
すると司会者が、「○○さん、△△さん、××さん、椅子に座ってください。あとの方は場所はどこでもいいですから、後ろ3列に詰めて並んでください」と、被授与者のうち3名の名前をあげて椅子に座るようにうながした。
呼ばれた3人はいずれも女性である。

最前列、アカデミックな服装をしたお偉いさんの脇に3名の女性が座る。
そのうしろに30数名の人々が3列になって立ち、フラッシュが何度もたかれた。

うーん、なんだ、こりゃ。
被授与者30数名のうち、女性は7人だった。
最前列、お偉いさん(全員男性。おそらく60代)の横に、20代後半の女性3人がとくに選ばれて座る。さらに、その横に、華やかな生花。

それって、女はお飾りの花だということか?
あるいは、管理職に女がいないこと、被授与者に女が少ないことのカモフラージュなのか?
……なんかスッキリしない。
でも、これまで何の疑問もなく、踏襲されてきたことなんだろう。

もし私が進行役だったら、年配の方から前に座らせるだろう。(被授与者には、20代から70代ぐらいまでいた。多かったのは、30~50代)。
また、妊婦や身体の不自由な方がおられた場合には、優先させるだろう。
国際化を叫んでいるのだから、外国から来られた方々も優先させたい。
身体の不自由な方・妊婦、留学生のうち年齢の高い方、日本人のうち年齢の高い方。こんな並びかな。

一体全体なんで、お偉いさんの脇には若い女を、なんていう発想になるかなあ。。

私立の女子大、女子短大を経て共学大に転じて、「なんだ、こりゃ」なことがいっぱいある。
もちろん、女子大には女子大独特のヘンなところがいっぱいあるのだが、共学にもジェンダー・バイアスを感じさせられるできごとは多い。共学だからこそ、ジェンダー格差を感じさせられる出来事が転がっている、と言うべきか。

私が所属している分野は比較的女子学生が多いので、ふだんはそんなに感じないし、私自身はみなさんに大変よくしていただいていて、ありがたいことに今のところスムーズに勤務させていただいている。(嘆くといえば、自分の力不足を痛感して日々嘆いていることぐらい)。
でも、全体的に見ると、驚くほど女性教員が少ないこととか、他の女性教員の扱われ方だとか、どーもなあ・・なことは多々ある。

まるで「不思議の国」だ。
やってる人たちにとっては、これまで何の疑問もなくやってきたことで、なんでそんなことが不思議なのか、てなことばかりなのだろう。
どうやって声をあげるか。
それと、「不思議の国」にどっぷりつかって、不思議だと思わなくなってしまうのも避けたい。いつまでも、??なできごとに出会ったら、「なんじゃ、こりゃ」と思える感覚を保っていきたいと思っている。慣れは怖ろしいから。

2004/10/08

暴力の連鎖

非常勤先(にして元の職場)の短大で後期初授業。
先日、尾道に行ったメンバーが久しぶりに勢ぞろいして、夏に行ったことや後期に向けての抱負を語り合った。

ドメスティック・バイオレンス(DV)について卒論を書くことになっている学生が、島根と広島のセンターで話をうかがったことを報告した。自分はこれまで本などでDVについてある程度の知識を得たと思っていたけど、現実とは違うと感じたという。

DVについて、「暴力の連鎖」が存在することがしばしば指摘される。
父親が母親に暴力をふるうのを見て育った子どもが、あるいは自らに暴力をふるわれてきた子どもが、長じて暴力をふるう形でしか他者と関係を持てなくなる、といった形で。

それで学生が「暴力の連鎖」について尋ねたところ、センター職員が「私たちは「暴力の連鎖」というコトバを使いたくない。ボクも大きくなったらお父さんみたいに暴力をふるうようになってしまうのだろうかと不安に思い、その概念によって傷つく子どもが現に存在する。」と語ったそうだ。

たしかに現場でサポートする職員が、当事者に向かって「暴力の連鎖」があると言ってはいけないだろう。
一方で、シェルターを運営している方や弁護士等の話をうかがうと、夫の暴力からようやく逃れた妻が、今度は息子に殴られるといったことがあるのも確かなようだ。
とすれば、「暴力の連鎖」がある可能性は認めた上で、当事者=被害を受けた/見続けてきた子どもたちをサポートし続けることが必要なのではないだろうか。

2004/10/07

こまぎれ時間

共働きと言っても、子どもがいないときには簡単だった。
家事は分担して、でも、例えば夕飯が作れなかったら外に食べにいけばよい。(というつもりだったけど、意外にも、平日はほとんど外食せずに殊勝に交互に作っていた。別に何時までに食べ終わらなきゃいけない、てわけでもないし。)洗濯や掃除をする時間がなければ、ためておけばいい。(これまた意外にも、わりとキチンとやっていたものの)。
ダンナも同業者なので、休日はどちらかの勤務先に昼食を持って一緒に行って、遅くなるまで仕事をしていた。

妊娠中も同様で、私の場合には順調で体調もよかったので、なるべく散歩して身体を動かし、鉄分を含んだ食事をし、予定日の2週間前ぐらいまで勤務していた。(産前休暇は産後に回せるため)。
で、育児休業中は研究休暇になる、ぐらいにのどかに思っていた。
それがあまりに大きな勘違いだとわかったのは、生れてすぐだったわけだが、その話はまたの機会に。

1年間の育児休業をとり、職場復帰してから、育児と仕事をどのようにこなすかはやはり大きな課題となった。
技術的にどのようにこなすかも重要なのだが、もう一つ気もちの問題がある。

社会学者の瀬地山角の「男のプライド?」というエッセイを読んで胸をつかれた。

  夕食の支度をしていたら、突然涙があふれてきた。タマネギを切っていたのではない。地の底に落ちるような恐怖感に襲われて、その場に座り込んだ。学位論文の重圧から抗うつ剤を処方してもらっていた頃に、経験した感覚だ。

  マラソンの翌日のような倦怠感が連日続く。メールを見るのが怖くて、パソコンも開けなくなった。これはまず、仕事を断らなければいけない。原稿などの依頼を断ろうとするのだが、これが難しい。連絡自体がおっくうで、もたもたしていると、次から次へと催促が来て、よけいに追いつめられるのだ。

  求められる仕事に自分の能力が追いつかないときには、能力を上げるか、仕事を減らすかしかない。元気ならともかく、この状態でエンジンの出力をあげると、飛行機は墜落してしまう。

 子どもが生まれ、保育所の送迎や夕食の準備に追われるようになった。ジェンダー論を志したのだから、育児に関わることは、望むところなのだが、研究は進まない。何をしてるんだろうと考えているうちに、この落ち込みがやってきた。子どもはいいわけかもしれない。連れあいも十分に家事をしてくれるのだから、世の働くお母さんより恵まれているはずなのに、キリキリ舞いする飛行機を操縦しているような気分だった。

そうだよなあ。ウチだって、子どもは一人だけだし、ダンナと分担してやっていて、十分恵まれているはずなのに、なんだか自分だけものすごく不合理な目にあわされているような、自分は何をやっているんだろうという落ち込みがあったし、今でもある。
子どもはかわいい、でも、子どもがいなければもっと自分はできていたはずなのに・・・などという思いがしてくる。
(実際に子どもがいなければ本当に怠けることなくやっていたかは不明なのにもかかわらず)。

私の場合、鈍いので、瀬地山氏のように抗鬱剤を処方してもらう、といった感じではない。でも、取り残されているような気分は十分にあったし、今でもある。ジェンダーなんぞに関心をもち、育児は大変だということを知ってはいても、それは頭で知っていただけで、やってみなければ実感できず、実感できたときにはもう後戻りできない。

いちばん苦しいのは、時間がこまぎれでしか使えないということだ。
以前は、一つの仕事をしているときに、(もちろん学生時代のように、ずっと好きに時間が使えるわけではないにせよ)、勤務にさわらない限り、それこそ寝食を忘れて没頭することができた。
でも、子どもを育てていると、(私の場合には、「当番」のときだけにせよ)、時間がくれば食事を作って食べさせるのを筆頭に、しなくてはならないことが次々ある。前夜遅くまで仕事をしていたって、朝決まった時間になれば起きてご飯を食べさせ、洗濯をしなくてはいけないのだ。どうしたって、自分が使える時間がこまぎれにならざるをえない。

そして、これはものを考えるときにかなり痛いことだ。
昔々、学生時代におよばれされた先輩女性の結婚式のときに、恩師が「研究者はぼーっと考える時間が必要です。はたから見ると何もしないでただ怠けているように見えるかもしれませんが、それは大切な時間なのです。ぜひそうした時間を与えてあげてください」みたいなことをスピーチをされ、相手方の家族の協力・理解を求めておられた。学生の頃は、そんなものか、と思っただけだけど、それは実に配慮のゆきとどいたお話だったと実感するし、またとくに女性がまとまった時間をとることがいかに難しいかということでもある。

あるいは、野口悠紀雄も、創造的な仕事のためにはまとまった時間が必要だ、といったことを書いていた。
でも、誰かが創造のための「まとまった時間」をとるためには、(その人の食事づくりなどももちろんだが)、子どもがいた場合には、別の誰かが育児に当たらなければならない。野口さんの場合、誰がその任に当たっていたのかは知らない。が、多くの場合、男性が仕事のためにまとまった時間をとり、妻がそれに奉仕する。
高群逸枝に対する夫の献身といった逆例もあるが。

我々の場合、性別役割分業ではなく、つまりどちらかがどちらかに、金銭的にあるいは家事労働を奉仕するのではなく、「男も女も、仕事も家事・育児も」でやってきている。それは自分たちで選び取ったやり方だ。
しかし。
自分のことだけに時間を使える人が妬ましく思えることもある。(それだけやってればいい人なんていない、ということもわかりつつ、理不尽にもね。)

智恵子の狂気の原因を、光太郎との関係に見た、駒尺喜美の卓論もあった(『魔女の論理』「『智恵子抄』は光太郎の贖罪の歌」)。駒尺は、光太郎の書いた「智恵子の半生」から、女中もおけない貧しい生活のなか、彫刻家と画家のカップルの生活のなかで、光太郎からみれば「いつのまにか」智恵子が自分の油絵創作の時間を削って家事を担ったこと、それには相当の葛藤があったであろうこと、そして苦し紛れにこまぎれの時間でできる機織りを選んだこと、が、指摘されている。鋭敏な智恵子にとって、そうした軋轢は狂気をも誘うものだった。ジェンダーの闘争。

以前、平山郁夫の新聞記事で、芸大で同期生の妻の方が成績がよかったのだが、彼女は美術をあきらめて平山の仕事を支えた、みたいなことが美談として載っていたのを見た記憶もある。

てなことをうっすら考えていると、突如として村上春樹の『風の歌を聴け』冒頭付近の印象的な一節を思い出す。

夜中の3時に寝静まった台所の冷蔵庫を漁るような人間には、それだけの文章しか書くことはできない。
そして、それが僕だ。

・・私も、そんな卑俗で中途半端な仕事しかできないのだろう。
たっぷり時間をとって、まとまって考えるなんてことは、今はできない。

でも、負け惜しみかもしれないけど、育児も家事も実際にしていない人間の「高邁な」文学研究とは違うのだという思いもある。
「生活者の論理」などという概念が出されることがある。正論だけどひよわな「知識人の論理」と対比させて称揚されるわけだが、そんな概念を唱えるご本人は、家事・育児もまったくやらなかったりするわけだ。
「生活者の論理」と「知識人の論理」を兼ね備える、そんな仕事をしていきたいなあ。

なんだか、全くまとまらない文章の垂れ流しだけど、エイヤっとアップしちまおう。
それにしても、こんなことぐだぐだ書いてる間に、仕事しろよ。<自分
ま、こうやってグチ書かないと、なかなか取りかかれないということで、目下のところの課題は、こまぎれ時間をいかに有効に有機的に使ってまとまった仕事をするかということ。
やはり「早起き」法かしらね。

2004/10/05

山中湖・三島由紀夫文学館「レイク・サロン」

山中湖にある三島由紀夫文学館。1999年の開館以来、5年間つづいていた一泊二日の「三島由紀夫フォーラム」が予算上の問題で今年度は中止。

その代わりに、今年は「レイクサロン」を開催とのこと。

      ◆第1回『三島由紀夫文学館・レイク・サロン』の日程

●日時:平成16年(2004)11月3日(水) 13:00~17:00
●場所:山中湖文学の森・徳富蘇峰館映像室(三島由紀夫文学館隣り)
●申込方法:ハガキ・FAX・電子メール(メールアドレスybm@olive.ocn.ne.jp)に①
住所②氏名③電話・FAX番号を明記の上、三島由紀夫文学館にお申し込み下さい。
●参加費:無料
●申込締切:平成16年(2004)11月3日(ハガキの場合は3日必着)。人数に余裕がある場
合は当日参加も可。
●申込問合せ先:山中湖文学の森・三島由紀夫文学館 〒401-0502 山梨県南都留郡
山中湖村平野506-296 TEL 0555-20-2655 FAX 0555-20-2656  
●主催:山中湖文学の森・三島由紀夫文学館

◎講師:杉山欣也(大東文化大学文学部非常勤講師ほか)
【演題】「学習院時代の三島由紀夫」     
 13:00~14:00(10分休憩)
◎講師:佐藤秀明(近畿大学文芸学部教授)
【演題】『奔馬』における「忠義」の思想 
 14:10~15:10(10分休憩) 
◎フリートーク
 15:20~17:00 
◎司会:井上隆史(白百合女子大学助教授)

5年間つづいた「フォーラム」は、全国から三島好きの人たちが集まって、とても楽しい会だった。研究者や大学院生のみならず、貴重本のコレクターや古書店主、母娘で参加する方など、三島が大好きな読者が一堂に会して交流する。毎年参加される方も多くて、なんだか同窓会みたいに盛り上がる。講師も研究者・評論家のほか、島田雅彦さんや岸田今日子さんなど多彩だった。(岸田さんに自作の句を書いていただいた色紙も所持。ミーハーだなあ・・)。

そんなフォーラムが開催されないのは残念だけど、レイクサロンも面白そう。(ただ、広島から山中湖はあまりに遠い(T-T)。片道8~9時間。行きは毎回、夜行列車で静岡までは行っていたものなあ)。
文学館の資料も見せていただきたいし、スケジュールチェックだ!

2004/10/04

秋枝美保さんの新著

秋枝(青木)美保さんから、ご高著『宮沢賢治の文学と思想-透明な幽霊の複合体-開かれた自己-「孤立系」からの開放-』(朝文社)をいただく。

まだ第一部を読んだだけだが、一つの到達点としての『春と修羅』序を、日本における仏教思想史受容と関わらせながら、きわめて実証的に検討されており、賢治研究に切り込んでいく意欲的な論考だと思う。第一部では、「手宮文字」「ダルケ」をキーワードに、賢治の心象の転換の様相を探っている。

「はじめに」に青木さん(の方が呼びやすいのでそう書かせていただく)も書かれていたように、このところの賢治研究は、賢治という神話を大胆に崩していく方向と、『春と修羅』第二集以後の推敲の様相等を細かく検証する方向と、二つの相反する流れで進んでいるように見える。こうした中で、青木さんは、「あたかも壊れた風車に真正面から立ち向かうドン・キホーテのようなもの」かもしれないと言いつつ、その反面の大きな自負をもって、賢治作品自体に、その文学と思想に、一つの形を与えようとするのである。

賢治にある程度の関心を寄せてはいても、しょせん門外漢な身には、賢治研究がいずれにせよ、きわめて実証的な領域に入り込んでいき、素朴な読みではついていけない感もいだくのだが、青木さんのご論考は、今後、一般の読者が解釈していく上で十分に参考にせねばならないと思える。

また、「おわりに」で、三島の『豊饒の海』に関するコメントも書かれている。
青木さんは、私が大学院に入学したときに助手を勤めておられ敬愛する先輩である。あのころ青木さんは、『豊饒の海』についてはかなり否定的で、『春の雪』の最初のあたりでウズウズしてしまってとても読めない、と言っておられたのを鮮明に覚えている。が、時は流れ、このたびのご高著では、『豊饒の海』の上に、三島の見た日本近代精神史を重ねていかれ、教えられるところが大であった。
賢治と三島については、萩原孝雄さんなどの指摘もあるのだが、相違も含めて両者の検討が課題だということが見えてきたように思える。また、ぜひ意見交換をさせていただければと願っている。

ともかく、私も怠けていちゃいけない。大きな刺激をいただいた本である。

くじ運

NODA・MAPの『走れメルス』のプレオーダーの抽選に外れたというメールが来る。別のチケット・サイトにもオーダーしているけど、多分ダメなんだろうなあ。。
地方に住んで仕事をもっていると、平日の公演には行けず、ただでさえ黄金チケットなのに土日狙いだと競争率が尋常ではなく高くなるのだ。
がっくり。

1981年、寮で同室の先輩に連れられて、新宿もりえーるでこの『走れメルス』を見たのが、初めての遊眠社体験だったと思う。

衝撃的だった。
若い役者たちの動きの激しさ。と同時に、舞台全体にあふれる透明な抒情。
こんな世界があるんだ、と、それからはまりまくって、東京を離れたあとも広島や名古屋から、博多・芦屋・大阪・京都・東京・筑波などへ、夜行バスやら安いチケット使って遠征したものだった。
でも、娘が生れて、ここ数年は生の野田芝居がなかなか見られずにいた。

冬にこれを観るのを励みにがんばろうと思ってたんだけどなあ。。。

2004/10/03

『キリクと魔女』

おやこ劇場ひろしま(こんどNPO法人になって、「子どもコミュニティネットひろしま」という名前になるらしい。おぼえられない・・)の特別企画で、映画『キリクと魔女』を観る。

去年の夏、日本公開にジブリの高畑勲が関わったというアニメ映画。
魔女カラバによって苦しめられているアフリカの村に生れた、キリクという男の子の冒険譚。途中まで、「男の子が老賢者に助言をもらって悪い女を倒し、人々を助けてヒーローになる」という物語の王道として展開。まるでユング心理学的な男の子の成長物語そのもので、ジェンダー的にはいかがなものか?? ナウシカとかトトロとか、女の子の物語を作っていたジブリが、なぜこの映画に関わったのか??などと思いつつ、見ていた。

が、途中から思わぬ展開。魔女の背中のトゲを抜いたキリクは、魔力から解放されたカラバに求婚する。そして、半信半疑のカラバから口づけを受けるや、みるみる大きくなって好青年になる。
村に戻った二人を快くは迎えなかった村人たちだが、老賢者が、魔女に食べられたと思っていた男たちを連れ戻したことにより、二人は祝福されて物語終了。

古今東西、悪い魔女や妖怪はやっつけられて終わりだと思っていたので、この展開には、ちょっと驚く。
何だろう。
魔女の苦痛をヒーローが取り除き、女の口づけによってヒーローは成人になる。
カラバの背中に刺さったトゲは、もちろん心理的・肉体的な傷の象徴だろう。トゲが刺さった場面、短くてハッキリとわからなかったのだが、男たちにとり囲まれていたようだったので、女性が(性的に)男性に苦しめられた喩なのか。魔女と恐れられた女を、癒す男。そのことにより男も成長する。もともと、キリクは、なぜカラバが悪いことをするのか、その深層を気にしていた。
DVや慰安婦などの男性の性を含み持った暴力によって傷つけられる女、女の憎しみ。それを癒すことのできる男。そのことによって成長する男。……といった感じなのかなあ。

異性愛神話なところは気になるけれど、原型的な物語が、単に悪女を成敗する話ではないのは興味深い。
カラバの声は浅野温子だったというのも驚きだが、アフリカ調の音楽とあいまって、とくに後半1/3ぐらいから単純な「子ども向きの映画」ではなくなっていった気がする。

2004/10/01

授業再開

後期開始、授業再開。
何やかやあったので、あんまり休み明けという実感はないが、さすがに学生が戻って来ると活気が出る。

夏休みの近況報告などで盛り上がる。若いっていいなあ。
でも、台風で、実家がかなりな被害を受けた学生もいた。(市のホームページに、被害を受けた家の例として写真がアップされたらしい。笑い話として話していたけど)。
4年生にとっては、進路と卒論とで迷い多き時期。でも、その分、楽しみも多いはず。いざ共に進まん。

私自身は、ここ一・二年バーンアウト寸前のところを、色々な方に助けていただいたり、芝居見たり、家族の「愛」やらで何とかエネルギー補給してカツカツやってきた感じだけど、彼ら・彼女らを見てると、本当にちゃんとやらなきゃね、と思う。

『痛くなるまで目に入れろ』

ちょっと遅くなったけど、芝居のレビュー。

★G2プロデュース『痛くなるまで目に入れろ
 ・2004年9月28日 アステールプラザ中ホール

異常なまでに過保護な父親に育てられ、ときどき記憶をなくしてしまうまでに暴発する息子。あまりに強烈な父親の下で子どもがどのようになっていくか、見せつけられた。
息子役の山内圭哉は、普通さと危なさの狭間を強く印象づけた。ぱっと見は新・海老蔵に似ている。父親役の陰山泰は痛い父親の不気味さをまさに体現。
脇を固めるのはみんな曲者役者ばっかりだったけど、とくにスタジオ・ライフの曽世海児に注目。殺人狂のヤクザと女装しての(さすがライフ役者!)女学生やレディース(暴走族)などの落差に笑えた。

タイトルは最初?だったのだが、内容を見て納得。「目に入れても痛くない」親の盲目愛に由来しているのだなあ。
そう言えば、唐突に出てきた女学生たちが「リップクリームは保護しすぎて唇にはよくない」などと言っていたのも、タイトル=テーマがらみだったのだなあ。

とにかく非常によくできたブラック・コメディー。最後の殺戮は、ちょっと引いてしまうくらいで後味悪かったけど、これも狙いどおりなのだろう。好きな話ではないけど、うまく煉られていたことは認めざるをえないし、先日見た『鈍獣』などとも作りが近くて、現代の気分を切り取っているのかもしれない。

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  • 春風亭小朝 -

    春風亭小朝: 小朝の夢高座Op.1「牡丹燈籠 ― 御札はがし」
    うまい! 何でこんなにうまいんだろう。落語家につける形容詞じゃないけど、スキのないうまさを堪能できる。もっとCDを出してくれることを切望。

  • のだめオーケストラLIVE!
    のだめオーケストラ・東京都交響楽:

    「のだめオーケストラ」LIVE!

    娘がピアノの練習を嫌がらずやるようになった、ありがたーいCD。2-2の2小節で間違えるバージョンがことのほかお気に入りの様子。クラッシックの入門編として。
  • Best of Bowie(US)
    David Bowie:

    Best of Bowie (Bonus CD)

    とりあえずデヴィッド・ボウイを聴きたい方へ。変遷を手際よくたどるのに好適!
  • Labyrinth
    Original Soundtrack:David Bowie:

    Labyrinth: From The Original Soundtrack Of The Jim Henson Film

    映画「ラビリンス」のサウンドトラック版。音楽的にもなかなかよい。バブバブ言っているのがボウイだと想像すると微笑ましい。
  • バッハ:ブランデンブルグ交響曲5番
    トレバー・ピノック/イングリッシュ・コンサート:

    Bach: Brandenburg Concertos Nos. 4-6; Triple Concerto BWV 1044

    硬質なカシャカシャとした音が、バロックにとても合っていて、気分が落ち着きまする。
  • Karajan Spectacular
    カラヤン:

    Karajan Spectacular

    そうは言っても、「ワルキューレの騎行」は、クナよりもカラヤンをとりたい。
  • ワーグナー:名演集
    クナッパーツブッシュ/ウィーン・フィル:

    ワーグナー:名演集

    「すばらしい」の一言。夾雑物が何もなく、ワーグナーの音自体が見事に立ち上がってくる。